昭和30年代の後半から全国各地で、特に都市部を中心に学童保育所開設の要望が高まり、文部省と厚生省とがカギっ子対策に取り組んでいた。狛江市では、40年代に入って、住民から開設要求が出始めた。行政内部でも、検討はしていたが、母親たちは行政に先駆け、43年に、都営狛江アパートと多摩川住宅で自主学童保育所を発足させ、公的開設の要求も出された。
 44年、当時の大熊教育長が英断を下して、自主学童保育所児童の指導を、教育委員会の社会教育職員で行うこととした。おかげで、その1年間は、4人の社会教育職員にとって大変多忙な年であった。毎日、2人の職員が午後の半日、2か所の学童保育所に1人ずつ派遣され指導に努めたが、本業の社会教育業務も、なんとか平常と変わりなく行われていたので、考えてみるとよくやれたものである。
 自主学童保育所は、都営住宅と多摩川住宅の集会所室で、それぞれ40平方メートル余りの小さい部屋に30人の子どもを預かっていた。遊び場は、集会場前の公園や団地内の広場を利用していたが、雨の日は狭い部屋の中で勝手に遊ぶので、お互いが邪魔になりイライラがつのって、すぐにもめ事を起こし、悲惨であった。
 この対応として、45年に上和泉学童保育所(定員50人)を第二小学校の校庭の西隅に開設し、翌46年に、多摩川学童保育所(定員50人)を根川沿いの空き地に開設した。建物はいずれもプレハブ造りであったが、正規職員を各所に2人ずつ配属して、狛江市の学童保育所の歴史が始まった。また、小田急線南地域の需要にも応えるべく、47年に、猪方学童保育所(定員50人)を第三小学校の校庭内に開設し、一応の体制を整えた。数年はその3所で済んだが、人口の急増に伴う児童の増加と働く婦人の増加等で学童保育の需要は増え続けた。
 上和泉学童保育所は、二小の児童が増え、学校が手狭となり、PTAの要望もあって、52年に上和泉地域センター内に学童保育所を開設し、同施設内に移転したが、この時期は、上和泉学童保育所への入所希望者が多く、定員50人に対して20人も超えていた。このため、保留児の親たちは、増設を願いながら、しばらくは、自主学童保育を行うことになる。
 一方、多摩川学童保育所も入所希望者の増加と下水道工事の関連もあって、増設を余儀なくされた55年に、根川をはさんだ東側に定員を80人に増やし移転した。しかし、入所希望者がその後も増え続けたので、58年に多摩川学童保育所を廃止して、新たに和泉学童保育所(定員50人)と松原学童保育所(定員50人)を開設した。
 50年代の後半から児童数の減少が目立ち始めたが、働く婦人の増加は一向に衰えず、学童保育所への入所希望者は増加する一方であった。60年には全学童保育所で定員を超過し、翌61年には和泉学童保育所室で14人の定員超過となり、それからの2年間、民間学童保育所問題や施設の増築等の紆余曲折があり、63年4月、第四小学校の教室内に、暫定的に根川学童保育所を開設して問題の解決をはかった。四小の空き教室を借用しての暫定的な開設に当たり、学校側の同意が簡単には得られず、大変苦労した。根川学童保育所は、多摩川住宅汚水処理場跡地に建設予定の根川地域センター内に移転することになっている。
 和泉学童保育所の定員超過問題が、やっと解決の見通しとなった63年に、松原学童保育所で16人が定員を超過し、プレハブを増築し対応したが、平成元年には26人超過となり、東野川学童保育所を開設した。
 子どもたちの放課後の安全とより豊かな成長を願って開設されてきた学童保育所は、各所で障害児も受け入れているが、その運営も含めて、検討課題が残されている。