狛江市の学校給食は狛江第三小学校から始まった。同校は、昭和32年10月、母体の第一小学校から1〜5年生、419人を受け入れて開校した。初代増田喜恵蔵校長は、渋谷区から赴任したが、前任校は給食を実施していたので、同校でも早期の給食実施に奔走し、33年1月中旬、狭い湯沸室を調理場に、煮炊きは屋外に設けた二つのカマドで給食を始めた。
 調理員は住み込みの用務員の奥さんをはじめ、毎日交代で3名の母親が手伝いに登校、「手のあいているものは手伝え」と校長自らも調理場に入った。茶わんとはしは児童の持参であった。
 33年4月、給食室が完成した。湯沸釜、かくはん棒、流し台、調理台などが据えられ、プロパンガスが使用された。献立は、コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)に、おかずが一品。コッペパンは不揃いで、児童は隣の席のパンと比較して不満をいったりしたという。コッペパンにマーガリン、ジャム等をつけるようになったのは後年である。
 おかずはチクワの磯辺揚げ、カレーシチュー、ケンチン汁など現在と変わらなかった。特にクジラ肉の立田場げ、酢豚などが好評であった。
 給食形態は、完全給食週4日、B型給食(完全給食は主食、副食、ミルクを提供する。週5日実施をA型という。)で、33〜34年の給食費は低・高学年とも月額280円である。
 36年9月20日、第二小学校にも給食室(木造スレート瓦葺100平方メートル)が完成、11月1日から給食を開始した。
 このときの給食費は第二小学校が月額450円、第三小学校は300円(37年1月から350円に)である。なお、40年度まで給食に要する燃料費、消耗品等も私費負担であった。
 38年6月、旧第一小学校では、児童数の増加に伴い、北側の鉄筋校舎を東側に続けて増築することとなり、普通7教室、特別2教室と同時に給食室を建築した。38年度の卒業生になんとか給食を食べさせようと、工事は突貫で進められた。
 当時の広報は、「全児童の待ちこがれた給食が3月16日より始まりました。新校舎の中にできた給食室のきれいな設備のもとで1回に約850人分の完全給食をまかなっています。開始の当日は、児童たちはうれしさとめずらしさでいっぱいなのか給食の準備中も調理室やリフトをのぞきこんだりしておおはしゃぎでした。」とある。この年の給食人員は、三小が829人、三小が658人で、調理員は各校4名ずつである。なお、初めて栄養士が採用され、主に現場指導に当たった。
 41年度、燃料費、洗剤等の消耗品が公費負担になったことから、それまでバラバラであった給食費が統一され、低学年は月額700円、高学年は月額750円となる。また、この年から完全給食週5日、A型給食が実施された。
 41年9月1日に開校した第四小学校からは、開校と同時に完全給食を実施したが、給食室の改築等で給食が中止されることがたびたびあった。
 学校給食で牛乳が使われたのは、都内では39年の2学期からで、特定校が補助を受けて実施した。狛江では、43年度に初めて、月3回牛乳を使用、翌年には逆に月3回がミルクの使用となり、45年度、全面的にミルクから牛乳となった。