狛江市の社会教育は、昭和30年代の人口増の頃から転換していった。
 それ以前の社会教育活動は青年団体、婦人団体等が中心になり、団体活動として学習活動や生活改善等に取り組んでいた。その中で青年学級や家庭教育学級も行い、新しい団体活動の努力がされていた。
 しかし、新しい町民が増加するに伴い、既成の諸団体に加入しない青年や婦人たちをどのようにして社会教育の対象としていくかが社会教育行政の大きな課題となっていった。
 そこで新しい住民も対象にした青年学級、婦人学級、成人学級等を市で開催することにし、広報で参加を呼び掛け、集まった学級生を対象に学級を開催した。学習内容の充実と共にもう一つの大きな狙いは、これらの学級生が自主的にグループ運営をしていけるようにすることであった。自らテーマを持ち、主体的に活動をしている現在から見るとまさに隔世の感がある。
 その頃、社会教育活動を行っていた場所は、狛江町公民館と称していたが、旧第一小学校の片隅にあった元村役場の古い庁舎であった。室内は古くて暗く、床はコンクリート打ちっぱなしの部屋と旧村役場職員の宿直室としても使われていた和室があるのみであった。冬の夜に行う青年学級等は、木材を燃料とする燃えつきの悪いストーブで、部屋が暖まる頃には終わるという悪条件の中であったが、青年たちは熱心に活動をしていた。
 言うまでもなく、新しい公民館がほしいこの声は青年からも婦人からも常に出ていた。当時は表立った陳情活動などはなかったが、そこは小さな町の良さで、なんとなく町当局をはじめ皆が認識していたようである。社会教育の立場からも公民館新設の要望は出していたが、当時、学校建築に追われる弱小の町財政では予算編成の前段階で消えていくのが常であった。
 ところが、昭和41年度の予算編成の時期に、突如として新公民館建設の話が具体化した。保育園建設の要望より優先させるべきとの議会筋の意見もあったとか仄閏している。結局、公民館とは言い難いが、プレハブ建ての狛江町集会が今の市役所の駐車場辺りに誕生した。小さなホール(学習室)と和室、料理教室のできる部屋(当時、料理教室は青年や婦人にも人気があった)と事務室で、当時の建設費は400万円である。
 後に事務室はいずみ図書室となる。誠にささやかな施設であったが、ほかに施設がなかったので集会や行事にも使われ、関係者は欣喜雀躍の態で、以後の社会教育活動の拠点として、大きな役割を果たしたが、52年、市民センターの建設に伴い取り壊された。