昭和の初期には、約l00ヘクタール以上あった水田も、30年代からの都市化とともに、大手会社による宅地開発が進み、各所で埋め立てが大規模に行われ、農地は住宅地に変わり、急激にその面積は減少していった。特に用水の関係で、その転用が集団的に行われていった。
 42年には、新野川が完成して、旧野川の氾濫の憂いは解消したものの、旧野川からの用水が入らなくなったのも一因である。続いて千町耕地が住宅団地となり、六郷用水も排水路となり下水道管が敷設されて道路となったため、流域の水田は埋め立てられた。
 残る岩戸・駒井の地域の、わずか約10ヘクタールの水田が、湧き水や工場等の排水をたよりに、足りない分は地下水を汲み上げ、苦労しながら作付けをしていたが、45年、府中市内の水田から人体に有害なカドミウムが検出されたのを機に、工場排水の影響によるカドミウムの汚染が問題となった。当市でも、農業改良普及所、農協が協力して調査した結果、排水を用水としていた多くの水田からカドミウムが検出された。
 これらの水田から生産される米の人体への影響が心配され、水田は、植木の植栽など、食用とはしない作物を栽培するか、埋め立てて新しい土で畑作物を作るかの転換を余儀なくされた。
 このため、転作の奨励措置もとられたが、全国的に米の過剰生産が問題となっていたので、減反することとなり、転作が行われた。
 こうして、狛江市内の水田稲作はほとんど姿を消し、わずかに駒井の高橋さんが、地下水を汲み上げて30アールの水田を耕作していたが、59年かぎりで、後はまったく見られなくなってしまった。