昭和40年代の多摩地区は、人口の急増に伴い、小学校の新増築や保育園の新設、ごみ・し尿処理施設の整備などに追われ、その財政対策に苦慮していた。都営ギャンブル廃止の話が持ち上がったのは、その矢先のことで、狛江はまだ町の時代であった。
 昭和45年5月、早速、町村長会、町村議長会の合同臨時総会が開かれ、財政対策として、都の廃止する京王閣競輪を肩代わりすることを満場一致で議決し、引き続き担当課長会で、申請手続きや一部事務組合設立の検討もなされた。
 翌6月、当町でも町議会議員全員協議会が開かれ、町長からこれに参加したい旨の意向表明がなされたが、競輪事業を行う場合の要件は、町村の場合は、戦災や災害の復旧事業などに限られ、通常の場合は、市以上とされていたため、町時代の施行は成果を見るに至らなかった。
 遡ると、42年の美濃部革新都政誕生後まもなく、都の公営ギャンブル全廃の方針が報じられた。44年1月24日のことである。
 都営事業として、後楽園競輪、京王閣競輪、大井競馬、大井オートレース、江戸川競艇が行われていたが、44年12月の発表では、これらを3年以内に段階的に廃止する。45年度中には少なくとも1か所を廃止するということであった。
 45年4月には、都から京王閣に対して、京王閣競輪での都開催は45年11月施行の都営競輪を最終とする旨の通告がなされ、それ以降、そのほかの事業についても順次廃止されていった。
 特例法により、市制施行した6市(福生、狛江、東大和、清瀬、東久留米、武蔵村山)は、市制施行後の諸問題を検討するため、6市協議会を組織していたが、都のギャンブル廃止の方針が出されてからは、京王閣競輪の肩代わり問題が、この協議会の中心課題となっていた。
 この話が進み、狛江市では46年1月6日に臨時市議会で、競輪事業を実施することが議決された。年始早々に臨時会を招集したのは、前年の御用納めの日に、立川競輪場の借用についての6市長からの立川市長に対する要請に対し、立川市長は「正式な使用契約は、立川市の3月市議会に諮るので、その後になるが、当面、市議会全員協議会を開き、意思確認のうえ、承諾書を出す」ということなので、46年1月8日に立川市に対し競輪場借用の願書を出すことになり、各市の意思を決定するためであった。
 市議会での審議には、当然これに反対する意見もあった。美濃部知事の足を引っ張るのか。社会悪である。ギャンブル公害が発生する。婦人団体も反対しているなど。しかし、人口急増の折、施設整備に多額の財源が必要であり、そのための財源を確保するということで、賛成多数で可決された。
 競輪事業を行うには、競輪場の確保(借用)とともに、自転車競技法による自治大臣の指定を受けなければならない。京王閣競輪の都施行は45年11月までで、それ以降は行わないとのことである。この対応のため、施行関係者の動きは活発であった。46年度からの施行の指定を受けるためのタイムリミットは、46年1月14日までとされているため、6市協議会では、各方面に要請行動を活発に行った。
 その頃の京王閣競輪場は、東京都と東京都11市競輪事業組合が使用していたが、11市組合は立川競輪場も使用していた。同時に、三鷹市と田無市で構成する東京都市収益事業組合も立川競輪場を使用する計画を進めていた。
 45年12月21日、調布、立川、三鷹、田無の4市の各市長会談で、(1)京王閣の管理施行者は11市組合が当たる。(2)京王閣競輪場の都廃止後の使用(後継分)は11市組合が5回、6市等で2回とする。(3)立川競輪の11市組合開催分(5回)は6市等で行う、以上のことが決まった。この点を45年12月26日、6市長が立川市長に確認したところ、立川市長から「6市の開催が認められれば6市の財政事情は理解しているので、競輪場を貸すつもりでいる」との確約を得た。
 そこで、45年12月28日に6市長が相談し、各市とも議会手続きを急ぎ、立川市に対し、施設使用願いを提出することとなった。
 当市では、46年1月6日、臨時市議会に諮り、同年1月8日付けで立川市に施設使用願いを提出、早速12日付けで立川市の使用承認を得て、自治大臣に対し、翌々日の14日には指定申請書の提出にこぎつけた。
 こうして狛江市ほか5市は46年5月12日付けで自治大臣の指定を受けることとなる。
 なお、一部事務組合の結成は、この種の開催団体を増やしたくないとの自治省の意向もあり、46年6月1日に東京都市収益事業組合に加入することになり、7月15日に第1回が開催された。
 この競輪事業はによる当市の収入は46年度(初年度)は1億1,045万円であったが、平成元年には2億3,000万円と倍増し、市財政に大きく寄与した。
 しかし、平成5年以降、競輪事業の売上が年々減少し、京王閣競輪場での東京都市収益事業組合開催による収支が赤字となり、15年度に事業全体で約4億円の赤字が発生し、16年度には約5億円の赤字が見込まれる状況となったため、同年度をもって京王閣競輪場からの事業撤退を決定した。
 18年度には立川競輪場での東京都市収益事業組合の年間開催数を5開催から3開催に縮小したが赤字解消には至らず、同年度をもって事業撤退を決定し、全ての競輪事業を終結した。
 その後、東京都市収益事業組合は、構成市の各議会の議決を経て、22年3月31日をもって解散した。