佐藤病院の火災は、焼失面積が1,000平方メートルを超え、焼死者7人を出す大惨事であった。
 昭和37年1月25日午前4時頃、寒中、消防団員を招集する半鐘が打ち鳴らされ火事を知らせた。各分団は、明けの寒空を真っ赤に染める方向をめざして出動、火炎の近くまで来てようやく佐藤病院が火事であると分かった。
 現場に到着したとき、狛江通りに面する病棟は延焼していなかったが、すでに東側に面した建物は火の海と化していた。
 当時の岩戸橋(現在の駄倉保育園北交差点付近)の上にポンプを据え、吸管を六郷用水に投げ入れ、数人でホースを抱え、病院めざして凍った田んぼを走り、滑ったり転んだりしながら、現場までホースを延長したが、その時は狛江通り側の病棟も火の海につつまれていた。
 今の消防機動力とは比べようもないほどおそまつな当時の装備では、火の勢いにおされ焼け石に水の状態ではあったが、各団員は厳寒の中を必死に猛火と戦った。水の冷たさに筒先を持つ手が耐え切れず、分刻みで筒先を交替しながらの放水であった。また水をかぶり、帽子や服が凍って動くとバリバリと音を立てる状態での消火活動は困難を極めた。
 東の空がようやく明るみ始めた頃、さすがの大火も鎮火した。しかし、その焼け跡からは7人の焼死体が発見され、火事の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。水がかかった立ち木が朝日をうけ樹氷のように輝いていたのが、その朝の寒さを一層感じさせた。
 この大火で亡くなられた7人は、身寄りのないお年寄りばかりで、行旅病者として狛江町が弔いをあげ、泉竜寺で法要が営まれた。
 この大火を契機に、常備消防設置の機運が高まり、早くも同年8月に常備消防本部が開設され、今日の狛江消防署に至っている。
 常備消防誕生の契機ともなった、この火災で亡くなられた7人のご冥福を祈らずにはいられない。