伝染病患者を収容、治療するための施設として平和病院設立の話力特ち上がったのは、昭和27年のことである。
 当時、医療の面で国立大蔵病院に大きく依存していた狛江村は、伝染病対策として同病院と契約して5床を確保し、伝染病の発生に備えていた。その大蔵病院が地方に委譲されるという話が唐突にあった。同病院の地方委譲は、狛江村としては大問題であった。そこで、27年9月14日の村議会で、同病院を民営とすることなく、都立病院とするよう請願することを議決するとともに、病院特別委員会を設置し、対策の検討並びに要請活動を行った。
 その結果、病院側から「大蔵病院が委譲されるようなことはない」との回答を得て、28年10月6日の病院特別委員会に報告された。
 この頃、狛江町のほか、府中、多磨、西府、調布、神代の6町村による病院組合の設立が同年3月12日の町議会で議決され、慈恵医科大学第三病院に委託して同病院の敷地の一角に平和病院を設置することになったが、地元住民の一部から反対運動が起こり、この病院建設問題は紛糾した。同年12月14日、町議会において16人の退席議員がある中で、病院組合脱退が可決された。しかし、6か町村議会が議決し、都知事の認可を受けて設置されたものなので、病院組合からの脱退は認められなかった。
 病院施設は29年10月に完成、同月21日、病床数30床により平和病院は開設された。この間、狛江町は組合議員を送らなかったが、29年11月に、ようやく都知事による調定が成立し、病院組合脱退問題の解決を見た。以後、27年余りにわたって伝染病、患者の収容、治療を行ってきた平和病院は、慈恵病院から借りていた病院敷地を返還しなければならなくなり、また、伝染病患者の減少もあり、57年4月30日をもって廃止した。
なお、平和病院廃止後の伝染病患者の収容、治療は、慈恵大学附属第三病院に委託して行っていたが、62年4月1日からは立川地区共立病院組合に加入し、同病院で引き続き業務を行っている。