昭和52年、市の歌と市の音頭を作ることとなった。
 調査段階では、他の自治体では有名な作詩家や作曲家の手によるものが多く、狛江でも自薦他薦の売り込みもあった。確かにプロに依頼すれば、ソツのない御当地ソングができることは間違いないのだが、企画段階で市民が力を合わせて作り上げる方式にしようとの方針が打ち出された。
 まず、歌詞を公募した上ころ、計167編、市の歌には99編、音頭には68編もの応募があり、市内在住の作曲家三木稔氏、作詞作曲家宗鳳悦氏、詩人の大倉芳郎氏をはじめとする11人の審査委員による審査が行われた。
 その結果、作詞部門では市の歌に加藤弘さん(和泉在住)、市の音頭には田中一徳さん(西野川在住)の作品が選ばれた。
 次いで、作曲の募集を行い、当時芸大生の中分京子さん(岩戸南在住、当時19歳)、市の音頭では、31編の応募の中から円住院住職の今村まさるさん(当時67歳)の老若お二人の作品が選ばれた。
 審査委員の先生から、「作品の内容から見て、市民の文化、音楽のレベルが相当高い。また、全体的に市民の熱意が感じられた。」との総評があったように、内心期待した以上の秀れた歌が誕生した。
 市の歌「水と緑のまち」は、格調高い歌詞に新しい感覚(原曲はフォークソング調)の曲が見事に融け合い、何十年経っても古くならないとの折り紙がつけられた。審査委員会では、この歌が末永く歌われることを提唱していたが、その時代、時代の移り変わりとともに、その時代にあった市の歌に変わってもよいではないかという提言も付記され、将来的に作り替えられる可能性も残されている。
 また、「こまえ音頭」には、早速、市内3人の踊りの師匠さんにより振り付けがされた。
 また、惜しくも佳作になった「狛江に住んで何年め」という曲は、狛江の移り変わりがよく表現されていて、市民の歌として広めていこうという話もあった。
  翌53年、レコードを作ることになり、同年5月に福祉会館ホールで市民の歌声コンクールを行いその中から横田康夫さん、須田眞立さん、林満喜夫さんの3人の方に「こまえ音頭」の吹き込みを、「水と緑のまち」は狛江高校コーラス部の皆さんに、また、伴奏も市内在住の音楽家を中心にレコーディングをお願いした。
 できあがったレコードは、表に市の花ツツジの写真を、裏には手書きの踊りの振り付けイラストを描いたジャケットに入れて、当初は市内のレコード店や農協、市役所窓口などで1枚350円で頒布した。同時に、職員が踊りの講習会を開催したり、婦人会等へ出張講習に赴いたりして徐々に広まり、以来10年余り、盆踊りや連動会等で踊られ、毎年の市民まつりや市や学校の行事の際にも演奏されている。
 このように、すべてが市民の手によって作られたことに誇りを持つとともに、あらためて市民の力の大きさを感じさせる事業であった。