戦前の狛江には、狛江村青年団、狛江村女子青年団という二つの組織があった。高等小学校を終え、家業についた若者たちが、暇なとき、あるいは夜のつれづれに集まって話し合う組織であったが、不燃物処理(当時は穴を掘って埋めた)とか、道路の砂利敷きは青年団の仕事になっていて、それから得る何がしかの報奨金は青年団の活動費になっていた。また神社の祭礼や盆踊り、年に一回開催される村の運動会や郡の運動会は、娯楽の少ない村人たちの楽しみだったので、その中心になって活動した。
 戦時中の女子青年団では銃後を守る女性としての話し合いや出征兵士を送る行事への参加、農事手伝いが主な仕事となり、特に出征兵士の家の田植え、稲刈り、田畑の草取りには「狛江村女子青年団」のたすきをかけて、皆で一生懸命頑張った。
 女子青年団への加入は自由で、団長である校長先生の召集に従って指定の場所に集まった。また、戦前は紺の制服があって団の活動、多摩地区の他の町村の団と交流のときなど必ず着用した。
 戦後は男女一緒の組織となり、相携えて活動していくようになった。昭和二十三年に狛江中学校が現在地に移転したときも、また当時中学校道路といわれた第一小学校前の道を造るときにも、青年団が出て草取りに励んだり、どこかに暗い道があれば街路燈の取り付けなども行った。後に農協や町の後援で行うようになった農産物品評会も、自らの向上を願った青年団の活動だったし、スクエアーダンスが日本に入ってきたときにはいち早く取り入れ、農村男女の融和に努めた。特に祭礼のときなど神輿をかつぎ、太鼓をたたき、素人演芸の先頭に立つなど、新しい地域社会の建設に貢献した。
 しかし、やがて来る都市化は、農家の長男でさえ勤めに出る状況を作り出して活動は鈍り、参加者を減少させる結果になった。