かつての狛江は水田や畑が多く、山林が少なかったので、燃料に苦労した家が多かった。わらや麦からもかまどにくべた。
 ひとたび多摩川に大水が出ると、流木を呑みこんだ濁流が荒れ狂った。川沿いに住む人たちは危険をおかして流れに入り、流木を拾い集めてわが家に運んだ。これで一年中の燃料を確保する家も少なくなかった。年間生活に織り込まれた入会権(いりあいけん)のようなものだったかもしれない。
 宿河原(駒井町)の松坂仙蔵さんは、舟が一人前に漕げるようになってからは、奔流を舞台に大活躍をした。望遠鏡で良さそうな流木を確認、頃を見計らって舟を漕ぎ出して、流木の前に出る。手早く綱を掛けて舟に結び付ける。木が大きいと舟の自由が奪われ、砧の方まで流されてしまったこともある。宇奈根の連中に「こんな材木を取るのに命を懸けるバカあるもんか」と笑われたが、一向にやめられない。
 駒井のAさんは、水のひかないうちに流れに入る。大水で川底の様子が一変している。一瞬にして深みに落ちて溺れ死んだ。
 和泉のBさんは、筏(いかだ)が次々に流れてくるので人が止めるのも聞かず、敢然と舟を出す。鳶口(とびぐち)を打ち込んで大きな筏をぐっと引き寄せ、悪戦苦闘、玉翠園の下に引き込む。このときの戦果はやがて増築の八畳に見事に変身したという後日談がある。流木で納屋や小屋を造ったという話はあちこちで聞く。
 流木といえども大きいのには切り口に刻印が打ってある。何日かして山主が調べにくると、わずかの手間賃をおいて引きとった。調べにくるという噂だけで、家中総出で桑畑に引っ張り込んで隠した人もいた。Cさんはあぜっ堀に隠したところ、村の人が山主に頼まれたと称して二人組でやって来て「買い取らないか」ともちかける。いまいましいが仕方なく安い値をいうと「その値でおいらが引き受ける」といい出して一転話が決まった。製材で板にしてえらく儲けたらしい。