多摩川は砂利の宝庫だった。明治の終わり頃から盛んに採掘され東京に運ばれていった。
 砂利の採掘は丸太を下に置き、その上にふるいをのせ、ふるいの一端を上から麻縄で吊り下げておく。そして二人が掘った砂利をふるいに載せ、他の一人がふるいを動かすと細かな土砂だけが下に落ち、砂利が残る。またふるいの目の大きさによって1寸もの、5寸ものなどと分けられるが、これがまた重労働だったので、一人1日4から5平方メートルくらいしか掘れなかった。
 掘り方にもこつがあった。普通は鋤簾(じょれん)を使うが、自然に積み重なった砂利を上から突いても固くてなかなか掘ることができない。しかし3尺下からえぐるように掘り進めると、ガラガラと音をたてて崩れ落ちた。やがて機械船を使うようになると、採掘から分類まで黙っていても機械がやってくれるようになった。ふるった砂利は舟に載せて多摩川を下っていった。下りは楽でも上りは大変だった。そこで帆船を使った。大きな帆を立て、南風に送られて中流域まで上ってきた。
 多摩川砂利は貴重な財産で、玉川電車も、京王電車も、小田原急行鉄道も、皆創業当時は砂利運びを大きな収入にしていた。小田原急行鉄道では、和泉多摩川駅の東側から河原まで線路を敷き、トロッコを川の中に引き込んで盛んに採掘していた。掘った砂利は貨車に積み東北沢にあった砂利置場に運ばれて、都心のビルエ事や道路の舗装に使われていた。
 多摩川砂利の採掘が盛んになるにつれて河床が下がり、やがて水位の低下や鉄橋・道路橋など構築物の土台さえ危険になってきた。そのため昭和9年頃多摩川での砂利掘りは禁止になり、周囲の田畑の下に埋まった砂利に目が向けられるようになった。