「おれたち尋常六年から高等科の頃といえば、学校(旧一小)の裏が堰(せき)場で、あそこへ行っちゃ水を浴びるんだ。そうすると先生が怒るんだよ。それで…先生が来て着物を持って行っちゃうんだよ。」明治時代の子どもは、六郷用水の豊かな流れを楽しんだ。
 野川からの水が、ぬるまっこく少しの雨でも濁ったのに対して、六郷用水の多摩川からの水は冷たくきれいであった。
 六郷用水の両岸は、ガサヤブや木立ちで覆われ、水辺に近寄りにくいところが多かった。夏ば猪方用水のために堰を支(か)う辺りには、なぜか人の背より大きく伸びたコモチシダが繁って不気味だったという。岩戸橋から一の橋の間は、大正時代頃まで流れに沿う道が全然なくガサヤブで大木も並んでいた。小川さんの自家用の川戸(かわど)にあったケヤキの大木で、おじいさんの喜平さんが自分で彫ったという臼には「明治四十五年第一月吉日新調「キ所有」と刻んである。「キ」は喜平さんのマークである。
 昭和初年、農村救済事業で用水沿いに道路を新設したとき、岩戸橋のたもとにコンクリートの共同洗い場ができた。田中橋の階段の共同洗い場も、御大典記念と銘うった駄倉(だぐら)橋のスロープのそれも、同じ頃の産物である。もとから自家用のささやかな洗い場(川戸)は、ところどころにあったものの、コンクリート製の施設が、水量の減りだした六郷用水の新しい景観を造った。
 戦中戦後の子どもたちは、そういう場所に魅力を感じた。水はせせらぎ程度で泳げるほどではなかったが、駄倉の洗い場の大きなスロープを自転車で走り降りて登る危ない遊びに挑戦した子もいる。多摩川からの取入口辺りは、はるか深い底にヘドロが見えて気持ち悪く、水を通すトンネルの中にはコウモリなんかがいた。トンネルの上を渡る道の両側の急なのりもコンクリートだった。途中の段まですべり降りる冒険は、下まで落ちたら登れそうもないだけにスリルがあった。