どぶ田(水はけの悪い深い田)は、神代団地、千町耕地(多摩川住宅の一帯)、市役所の東から農協付近、岩戸児童館の辺り、猪方の第三小学校周辺などに多かった。
 「じじばば田んぼ」という伝承がある。どぶ田に足を取られて溺れそうになったおじいさんを助けようと、あわててとび込んだおばあさんも一緒に沈んでしまったという悲しい話である。
 千町耕地の中堀と根川の間では、畔(くろ)で足ぶみすると三つほど先の田んぼまで地震のようにゆれたという。どぶ田は一枚(一区画)が小さかった。大きいところで三十坪ぐらいであった。長い柄の馬鍬(まんが)で畔から代掻きができるようにという工夫でもあった。深い田はふみ込むと腰までもぐる。松などの丸太を何本も沈めて、それを足場にして田植えや草取りをした。
 田んぼに入るときかんじきを使うこともあった。かんじきは炭俵の上下のふたの役目の丸くたわめた雑木を枠として、板片(いたぎれ)を十字に釘で留め、鼻緒を付けた。長いわら縄を鼻緒に結び、手で引っ張って片足ずつ上げて前へ進むのである。
 刈り取ったイネの穂先を濡らさないために、畳半分ほどの小さな田舟(たぶね)が使われた。一メートルほどのカシの枝先を扇形に並べ、要(かなめ)のところを縄で結び、水面をすべらせて田舟の代用とすることもあった。これは「うし」と呼ばれた。
 どぶ田で穫れるお米は水っぽく、油気(け)がなく味がよくなかった。しかし、炊いたときかさの増える「たきぶえ」があったという。俵につめると、普通のお米なら十六貫のところ、十七貫を超えることもあった。
 どぶ田は耕作に苦労が多く、収穫も少なかったが、反面、当然のことながら旱魃には強かった。戦後になって一部の地域では、暗渠排水の工事が行われた。