昭和二十年五月二十五日の夜更けから二十六日の未明にかけて、アメリカ空軍のB29、二五〇機が大編隊を組んで東京上空にやってきた。夜半過ぎ、B29の落とした焼夷弾が和泉多摩川駅近くの民家を直撃し、火災が発生した。続いて狛江国民学校(小学校)にも多数の焼夷弾が投下された。そのうち二発が北校舎と新校舎の屋根を突き抜け、火はたちまち横に広がり上へと燃え上がった。
 当時国民学校に併設されていた青年学校教諭の桑原亥左雄さんは、岩本長吉さんとともに宿直勤務だったので玄関脇の防空壕に入っていたが、突然目の前が明るくなったので飛び出したところ、火のまわりが早く、消火できる状態ではなかった。やむなく職員室に行き、前もって用意してあった非常持出書類一箱を防空壕に持っていった。再び戻ったときにはもう校舎の中に入ることができないほど猛火に包まれていた。
 鎮火後学校長に報告しようにも電話はなく、電車は走らず、仕方なく自転車を借りて柿生まで行った。久保倉校長に実情を伝え狛江に帰ってきたときには、夜はしらじらと明けていたという。
 当時の村役場でも十一人の職員全員に空襲警報のサイレンが鳴ったら夜中でも出動せよという命令が出ていた。そこで国民学校と地続きになっている村役場が、国民学校の火災で類焼の危機にさらされていることを知った石井正子さんは、まだ二十歳を過ぎたばかりの若さであったが防空頭巾をかぶり家を出て役場に向かった。途中泉龍寺の辺りまで来るとすでにキナ臭いにおいが漂い、役場に着いたときには国民学校は火の海だったという。しかし重要書類を運び出すため、何度も頭から井戸水をかぶり、足元に落ちた焼夷弾の火炎を避けながら、熱風で焼けつくような役場と道を隔てた防空壕の間を何回も往復した。しかし、このあまりにもすざましい中での乙女の活躍に危険を感じ、警防団長だった小川利太郎さんは何度か引き留めようと、サワラの木の下に、あるいは書類でいっぱいの防空壕の中に彼女を押し込んで身を守らせた。
 学校に火の手が上がった頃、狛江駅前に住んでいた田代実さんは農業会へと走った。農業会では石黒勘次郎さんが、作業場の屋根の上で一生懸命火の粉をふり払っていた。学校の様子を見ようと都道に出た。やがて西の方から編隊が来た。たちまちすさまじい落下音がしたので、とっさに近くの麦畑に伏せた。頭を上げると辺り一面火の海だった。
 急いで事務所の窓を破って中に入った。中はまだわずかな火で、二度ほど支払いに必要な野菜の出荷台帳を持ち出すことができた。三度目には二階止まりだった焼夷弾の火炎が拡大してもう入れなかった。近所で延焼しそうな家の消火に努めながら農業会の燃え盛る姿を見ていた。
 やがて会長の石井三四郎さんと少し遅れて小足立の警防団第六分団が到着した。おらが農業会を守れという意気込みでかかったので、農業倉庫の錠前がはずれた。扉をわずかに開けてその間から放水し、米、麦、コーリャンの山がくすぶっているのを消し止めた。夜明け近く女子職員たちも駆け付け、すっかり燃え果てた職場に呆然としていた。
 翌日軍隊がコーリャンを運び出したので焼け残った農業倉庫を片付け仮事務所とした。近所で焼け出された数所帯の避難所にも充てられた。新しい農業会の復興は便所からだった。便所がないと仕事にならないという。この時の悲惨さを田代実さんは次のような短歌で表している。
 ・事務所はも 一面の火に掩はれて 失うずまき燃えさかるなり
 ・今し今 事務所焼け落つ すさまじき火焔となりて今し焼け落つ
 ・大小の 金庫二つゆ 焼け落ちし 梁をささえて黙然とあり
 このとき落とされた焼夷弾は長さ四十センチ、直径十センチくらいあろうか。六角形のものが三十六本一組になったもので、上空で分解し、雨のように落ちてくるものであった。泉龍寺の墓地にも多数散乱し、墓地の入り口のイチョウの幹には、今なお傷跡がかすかに残っている。
 またこのときの焼失家屋は上和泉から岩戸・猪方にかけて二十数軒に達している。そして当時警防団で活躍した小川功さんの話では猪方・和泉の多摩川土手に落ちた焼夷弾を拾い集めたらリヤカー二台になったという。それらは国民学校の校庭に集められ、いずこかへ持ち去られた。