旧野川は、狛江に入るとまず、箕和田(上小足立)と上覚東の間を流れ、御台橋からはだいたい右岸が和泉で、左岸は下小足立・三島(下覚東)・岩戸の境をたどリ、ミツヤで六郷用水に合流した。ジザイ堀・三島用水・水車堀など左右いく筋もの用水堀を備え、よく陽の当たる田畑の中、水田と差のないほどの高さを、ゆうゆうと蛇行していた。昭和初年、いま市役所の東、北谷だけは耕地整理をして、流路が直線となった。
 野川流域の田んぼは深いところが多い。水を引き入れる苦労はないが、神代団地の辺りは、戦後暗渠排水工事をしたほどである。洪水の被害も受けやすく、くぼんで低くなっていた登記所の通りや御台橋付近は、しばしば水浸しになった。北谷の耕地も時に一面海のようになった。
 もっとも、6月から9月まで町役場の建設課長が「雨が降ったらおちおち寝ていられない」ほど、野川が氾濫するようになったのは、戦後沿岸に住宅が増えてきてからであった。深い田や水をかぶりやすい畑は、地主が手放すのも早かった。かつて、降った雨は広い田畑にじくじくしみ込んでいたのに、今度は屋根をつたって道路の側溝に流れ、一気に川に集まってあふれ、ほとんど毎回浸水するようになってしまった。六郷用水との合流点近辺では、何度か決壊もした。水が小田急の線路を越えたこともある。すると、岩戸と和泉・猪方・駒井との境に沿って押し流し、あたかも六郷用水の開さくにより350年も前に失われた野川の原始の流路を、まのあたりにするかのようであった。中でも昭和41年6月の台風四号の被害は、1690世帯、田畑41ヘクタールに及び、狛江町始まって以来の大災害といわれる。町の行政は、応急手当てに奔走する一方、昭和35、6年から沿岸各市町村と共に野川改修期成同盟をつくって都に働きかけた。下流から始まった工事が完成し、野川の流れが町の北端の新野川に移ったのは昭和44年。今、旧野川の地下は下水道、地上は野川緑地公園として再生(昭和52年)している。