駒井のAさんは小学生のとき(大正の終わり頃)、父親の引く野菜を満載した大八車の後押しをして、青山善光寺門前の市場(まつや)まで行ったことを覚えている。野田の坂や宮益坂などでは大汗をかいた。朝、暗いうちに提灯をつけて出発したのである。
 野菜はあちこちの市場に運んだ。値(ね)よく買ってくれるところが選ばれたのだ。荻窪、田無、小平、府中、調布、仙川、淀橋、渋谷(宮益坂と荒木山)、恵比寿、五反田、池尻、瀬田、登戸、矢口と全方位であった。戦後、岩戸の神田橋、後に農協のところにも市場ができた。
 「なだいやま」ということばがある。あそこの品物はよいという評判が定着した生産者である。市場の競(せ)り子が「いい品物だぞ。品物違うんだから」とひと声かけてくれると、高値(たかね)で落ちる。しかし、品物をひっかきまわして、下の方から悪いのを見つけだして、「こんなじゃないか」と値をたたいて安く仕入れようとする八百屋さんにはしばしば泣かされた。こんな人を市場では「あかにし」とよんで迷惑がった。
 高木佐七さんは国領の鍋屋横丁のこうじ屋へ野菜を出荷した。朝、獲り入れて荷造りをし、夕方に市場に届ける「夕荷」であった。四谷見附の方に肥引きに行くときは、サトイモ、ダイコン、カブ、ハクサイなどを積んで、途中淀橋市場に卸した。代金は当日精算されることもあったが、次に行ったとき受け取ることもあった。
 昭和十八年、野菜の統制が始まる。農業会に割当てがくる。何買出せということで種類を問わない。よい品物を作って、値(ね)よく買ってくれる市場に運ぶというのは以前のこと、とにかく目方を揃えることであった。集荷は初め小学校の校庭、二十年になると農業会の構内となる。調布の市場がトラックで取りに来た。生産者の名前と量目(りょうめ)を書いた伝票を揃えて品物を渡す。野菜の大部分は軍や軍需工場に行き、一般家庭に配給されるのはほんのわずかだった。