狛江市西和泉と調布市染地(そめち)を合わせて、今の多摩川住宅の一帯を「センチョウ耕地(ごうち・千町耕地とも戦場耕地とも)」といった。見渡す限り、春はレンゲ畑、多摩川の大水さえたいしたことなければ秋は稲穂の波がゆれた。南を流れる多摩川に対し、北から東に大きく弧をえがいて水田の縁取(ふちどり)をしていたのが根川である。その水源はハケの豊富な湧水で、千町耕地の潅概には根川からいく筋か南に向けて用水堀が引かれていた。染地小学校の東角からドウハン堀(ドハン堀・道安堀)が流れて長テビ(水路)となり、いずみストアー辺りからは中堀が南流した。そして日活撮影所の方から多摩川に沿ってシジメッ(しじみ)川があり、玉翠園の西の辺りでドウハン堀を合わせて多摩川に注いだ。その辺りのシジメッ川は浅く「きらきらした砂地で踏込(ふんご)まなくてね」「篩(ふる)ったら金が出る」かと思うほどだったという。水面に柳のしだれ出る暖かい場所であった。
 一方、根川はハケ沿いに少し高いところを流れ、久保さんの湧き水の付近などにワサビ田ができていた。夏「しゃっこく(冷たく)て入れないほど」故、そのほとりの田は、一反で米が4から5俵しかとれなかった。泳ぐ子もいた。魚がたくさんいて、鼻をクチンとやると集まってきた。
 根川は、すぐに多摩川には注がない。すでに天保の頃、六郷用水の取入口の上を木製のトヨ(樋)で西河原の側(がわ)に導き、当初35町歩もあったという伝左衛門新田が開かれていたからである。この堀は三給堀ともいった。根川の水車は、古くは川田男爵別荘と玉翠園との境にあり、そこは後まで川セリがよく育つ場所だった。水車は場所を変えて六郷用水を渡った水神社の側(そば)になり、戦後まで稼動していた。水車用と潅概用水に水路が分かれ、臼は四つあった。
 戦後三給堀の水が激減し、まだ八町歩あった田んぼのために、根川の湧水地にモーターのポンプを造った。夜番は子どもや年寄りの仕事で、毛塚さんは蚊にさされないように南京袋に入って寝たのだという。