明治三十年、村内に赤痢が蔓延したため、急遽隔離病舎(避病院)が建てられた。現在の狛江一中の付近である。伝染病の疑いのある患者は直ちに収容され、「院長」と呼ばれる住み込みの人が介護や食事の世話をした。
 明治四十年頃、高木佐七さんが肋膜炎を治してもらったのは、当時銀行町に出張診療をしていた登戸の当麻(とうま)医師であった。村内には医者がいなかったので、調布の狩野、国領の時崎、宇奈根の小泉、喜多見の前川の諸先生が村人の頼りであった。
 小田急開通後、狛江駅のそばに片岡医師が開業し、長く小学校の校医を勤めた。専門は耳鼻科、和服のやさしい先生だった。ここで狛江はようやく無医村を脱したのである。
 昭和十四年、府中に保健所が新設され、狛江村の保健はその指導を受けることになる。その頃赤痢や疫痢が流行し、幼い子が次々に死んだことがある。伝染病の患者が出ると、黒塗りの乗用車で小平の昭和病院に運んだ。当時は肺病といった結核の患者も続出し、一家に何人もの患者をかかえる家が何軒かあった。近隣の町村に比べて、狛江の伝染病罹患率はかなり高かったといわれている。
 当時、村役場で保健を担当していた石井正子さんは保健所長に同行、結核患者を捜して村内をまわった。針金の吊(つ)り手(て)を付けた空き缶に検査のための痰(たん)を集めた。子どもたちは「肺病の家」の前を通るときは口を手のひらでふさいで、息をつめて走る、その程度の衛生知識であった。
 銀行町のA先生は見立てがよいので信頼された。先生でなければという信者も多かった。代診のような形の診療だったらしいが、手に負えない患者はすぐ専門病院に送るという節度があった。十一人という子宝に恵まれ、戦争のさなか「産めよ殖やせよ」の旗手として厚生省から表彰を受けた。