富士講は、江戸時代中頃以降、江戸を中心として盛んになった富士信仰の結社である。商人、職人、農民の多くが参加した。各地に講元と先達がいた。夏がくると、先達は講中の人たちを引き連れて富士山を目指した。
 富士講では富士山が遥拝できる小山、塚、人工の築山などに浅間社を勧請し、富士塚と呼んだ。狛江にはかつて銀行町(狛江三叉路辺り)と藤塚(和泉本町四の七、『新編武蔵風土記稿』に「金掘塚 小名原にあり、一に富士塚と云は、近き頃浅間を祭るゆへなり」とある。)の二カ所にあった。いずれも古墳だったようだが、今は何も残っていない。
 谷田部勇さんの二階のテラスに据えられた江戸時代末建立と思われる石塔には、「大峰山上奥通り修行/富士登山六拾六度大願成就/諸国神社仏閣拝礼」の文字が刻まれている。大願成就したのはたぶん勇さんの祖先の平作さんであろう。大峰山まで修行に行っているから、信心深い行者のような人だったと思われる。富士登山六十六回といえばかなり長い歳月を要したことになる。
 伊豆美神社には明治二十七年建立の「登山大願成就」の石碑がある。先達大久保稲吉以下、世話人・信徒四十八人の名前が読み取れる。中央上部には丸の中に山(まるやま)の講印が大きく刻まれている。この講は丸山教(明治初期から登戸を中心に栄えた伊藤六郎兵衛を教祖とする富士講の分派)に関係する講と思われる。
 宿河原の小沢新蔵さんの家には御身抜(おみぬき・富士信仰の本尊)と小御岳神社の神札が残り、束野川の栗山長治さんは木花之開耶姫(このはなのさくやひめ・浅間社の祭神)の掛け軸と朱印がたくさん押された富士行者の白衣を保存している。
 文化四年(一八〇七)、富士山御師田辺相模守から前記の谷田部平作に授けられた富士信仰のテキスト二巻(一巻は富士講の聖典「三十一日之御書」)は伊豆美神社所蔵となっている。