昭和七、八年頃のことである。村の寺々(仏教会)が主催する日曜学校というのがあった。毎週日曜日に大正大学や駒澤大学の仏教科の学生が村内のお寺を巡回しながら子どもを集め歌や踊り、習字、勉強のわからないところを教えていた。またお釈迦様の話や仏教の歌を教えることも多かったので子どもたちも自然とそれらの歌や話を口ずさんでいた。
 参加者は常時二十人くらい、小学生が大部分だった。また、奉仕活動だから無論月謝は必要ないし、そのうえお盆のときには施餓鬼会といって仏様を供養する会ということから、お寺の座敷に舞台を作って、親や親戚などを集めての発表会がもたれたり、ときには大正大学や駒澤大学で行う踊りの発表会に子どもたちを連れていくこともあった。
 昭和十六年以後、明静院の住職坂戸公顕さんを中心とする狛江文化会があった。お寺に集まり、坂戸さんの話を中心に村の問題や人生について討論した。特に坂戸さんは当時では稀な「女性問題研究家」ということで、さまざまな女性に会ったときの印象、女性の社会的立場などを話していた。
 戦後の昭和二十二年には狛江青年文化会が設立された。元狛江国民学校教諭であった角田力松さんの教え子たちの集まりだったが、民主主義を中心に新しい時代に即した文化活動を行っていた。特に昭和二十二年十一月三日の新憲法公布一周年の記念行事として狛江小学校を会場に、多くの人を集め、笹森国務相などの話を聞いたり、GHQから借りてきたパネルを展示しながち日本国憲法の研究を深め、その普及に努めた。
 また当時の狛江にはそのほかにも「かなりや童謡会」「あをぞら舞踊会」「狛江農芸文化同人会」「女性問題研究所」「綜合新文化研究所」「狛江文化会」「ラジオ同好会」「花柳勢華舞踊研究会」などができていて戦後日本の平和を喜び、それぞれの立場から新しい村づくりに励んでいたが、やがてこれらの団体が手を取り合って「狛江文化連盟」を結成した。