和泉の泉龍寺の延命子安地蔵尊は、まわり地蔵としてよく知られていた。江戸時代の半ば頃から、この地蔵尊は、江戸や多摩の各地の信者の家を宿にして、巡行(じゅんぎょう)を続けていた。通称は子育地蔵さん。巡行先では和泉の地蔵さん、世田谷の地蔵さん(江戸時代には世田谷領だったので)、
まわり地蔵、荷送りの地蔵、一夜地蔵などと呼ばれていた。
 今では、いつも寺の本堂に安置されているが、昭和十八、九年頃までは、月の二十五日から翌月の二十二日まで、各地の講中の家々をまわっていたのである。巡行先は月ごとに決まっていて、例えば、江戸時代から三月講中の名でも呼ばれる練馬・十條の講中には、三月から四月、「送り込み」のいちばんにぎやかな立川・小平方面の講中への巡行は、十月から十一月であった。
 厨子(ずし)に入ったお地蔵さんは、しょいこで背負われていくこともあったが、大八車に似た小型の黒塗りの車で運ばれた。巡行の間、寺では「お留守番」と呼ばれる一体の地蔵尊が、留守居役を務めていた。
 和泉の地蔵さんのお宿をすると、子どもが丈夫に育つとか、子どもが授かるとかいわれ、子どもの弱い家や子どもの欲しい家などでも宿をした。地蔵尊を迎えた宿の家では、近所の子どもたちにぼた餅など振る舞ったり、おばあさんたちが百万遍のお念仏をしたりするところもあった。二晩泊めるとお地蔵さんが泣くといわれ、どこでも一夜限りで、次の宿へと送っていく。「延命子安地蔵尊」と書いた赤や白の旗を立て、到着を知らせる鉦(かね)をカーンカーンとたたきながら行列をつくっていった。
 二十三日には、送り込みといって、巡行先の講中の人たちが地蔵尊を泉龍寺へ送り込み、この夜は寺でお籠(こも)りをする。この日の午後から翌二十四日の縁日には、寺の境内に露店が出て、特に十一月には、たいそうなにぎわいであった。送り込みの夜には、寺では演芸などもあり、近所の子どもたちも、それは楽しみなものだった。