年の暮れになると、注文を受けて賃餅を搗(つ)く農家もあった。戦前までは、青山、四谷、三軒茶屋などの辺りに肥引きに行っていたので、肥やしの汲み取り先の家(肥宿(こいやど))から頼まれて、正月の餅を搗いて届けたものである。また、東京方面の知り合いの餅菓子屋などに泊まりがけで賃餅を搗きに出かけて行く人も少なくなかった。
 二月正月といって、正月行事を月遅れの二月にやっていた家々も戦前まではあって、暮れには一月の三が日のために少しの餅を搗くだけで、大量に自家用の餅を搗くのは二月正月を迎える一月末であった。年の暮れに肥宿から頼まれた餅を搗いて持っていったり、また、晦日餅(みそかもち)といって、十二月三十日に餅を搗き、三十一日には東京へ売りに行ったりした。お供えやのし餅をリヤカーで引いていき、渋谷の道玄坂の辺りで売ったという人もある。
 このような暮れの賃餅搗きは、現金収入の少ない農家にとってはよい賃稼ぎになった。賃餅搗きは節搗(せつづ)きともいって、のっぴきならない際(きわ)仕事であり、東京の餅搗きは手間賃がよかったので、正月の小遣い稼ぎになるからと、時間をやり繰りしても出稼ぎに行った。一人で三升玉を続けて三日搗ければ一人前の日当が出たと、和泉の荒井熊治さんは話す。
 猪方の小川盛光さん(明治三十二年生)は、麻布六本木の一連隊のそばにあった餅菓子商いの奥州屋に十年くらい、目黒の方にも三年ほど行っていたという。暮れの二十五日か遅くとも二十六日に出かけ、一週間近く泊まって仕事をしていた。猪方に例をとると、このような餅搗きの賃稼ぎを店から請け負ってくる人がいて、奥州屋へは二、三人、猪方全体では東京方面へ七、八人が毎年手配されていた。日当は、搗き手が一円、手返しが一円五十銭の決まりだった。一日に一人で六、七俵、多いときには八俵ぐらいを搗く。毎夜、夜中の十二時頃起こされては、翌日の昼頃までに搗きあげるというたいへんきつい仕事であった。