現在の福祉会館通りからいちょう通りへと続き、一の橋から先は世田谷通りに沿って、六郷用水が流れていた。慶長2年から14年(1597から1609)に小泉次太夫の指揮のもとに開さくされた全長24キロメートルの潅概用水である。多摩川住宅の南端のところに多摩川からの取入口があり、岩戸で野川を合流し、はるか大田区六郷方面の水田をうるおすのが最大の目的であった。恩恵を受けた流域35カ旧村の用水組合がこれを管理し、取入口の近くには水神社を祭っていた。
 狛江地域においても、六郷用水は自然の水利を切り替え、補強する大変革で、これから分水して新田開発もなされた。猪方用水の取水口は福祉会館(現・西河原公民館)のやや下流で、猪方新田や柳沢(やぎさ)新田と田中相(あい)の田に水を引いた。ただし、相の田の取水口は、古くは別に下流の田中橋近くにあったらしい。旧一小裏の堰(せき)場からは、内北谷のために分水があり、岩戸橋下手(しもて)のイリから岩戸用水が取水した。多摩川の水位が、もともとは今より一丈も高く流れていたから用水の水は豊かで、大正時代、取入口の目の前で玉翠園を経営していた井上家では、自宅との間で荷を運ぶのに舟で往来できた。また小川重次さんも子どもの頃、毎年五月川を上るマルタという魚を獲りに、漁師の舟が岩戸橋付近まで来るのを見かけている。
 昭和6年に始まる日本水道狛江浄水場が、今の田中橋児童遊園の位置から取水し、上水道の水源拡張をしたのは昭和10年であった。この頃、六郷方面が都市化して潅概用水の需要は減りだしていた。しかし、多摩川の砂利採掘などによる水位の低下はさらに激しかった。昭和30年代には、もはや多摩川の水はほとんど六郷用水に入っていない。それでもまだこの潅概用水を必要とした農家では、泉龍寺裏辺りでの湧水を当てにして川ざらいを試みている。旧野川の廃止がとどめとなった。
 死滅した用水は、昭和40年頃から埋められ始め、地域下水道に変身し、やがてその上が今のような道路になったのである。