玉川碑(中和泉4-624)は小高い築山の上に、礎石を横たえて立つ3メートル近い根府川石の石碑である。次のような万葉集の一首(巷14)が万葉仮名で刻まれている。

  多麻河泊爾左良須/弖豆久利佐良左良/
  爾奈仁曽許能児能/己許太可奈之伎


  「たまがわにさらすてづくりさらさらになにぞこのこのここだかなしき」と読む。「この子がとてもかわいい!」という内容だが、多摩の清流に脛(はぎ)もあらわに布を晒(さら)している若い娘さんの姿が目に浮かんでくる。
 なお碑の背面には旧碑の「碑陰記」(白河藩の儒者広玉川碑 写真瀬典撰、同藩大塚桂書)と、再建の趣旨を伝える渋沢栄一の新しい碑陰記が刻まれている。下部には再建を推進した「玉川史蹟猶興会」の主要なメンバー17名の姓名が明らかにされている。
 文化(1804〜)のころ、猪方村の名主の家に平井有三菫威という元土浦藩士の浪人が寄宿していた。手習師匠などをしていたが、白河楽翁(松平定信)や江戸の文化人とのパイプがあったらしい。
 彼は日本六玉川(むたがわ)の一つ武州玉川を称えるこれといった名所がないのを嘆いて石碑の建立を思い立ち、楽翁に揮毫を依頼する。碑は文化2年(1805)、猪方村半縄の堤防のほとりに水神社ともども完成する。ところが、20数年後の文政12年(1829)の大洪水で流失、行方が知れない。
 時は移り大正を迎える。三重県人羽場順承は楽翁を敬慕し、その遺著や遺跡を追っていた。たまたま旧桑名藩士の小沢氏に面会したとき、玉川碑の拓本(復刻)を見せられた。驚喜した羽場は強引にこれを譲り受けたが、このとき玉川碑がすでに失われていることを知る。早速猪方の旧跡を踏査、再建の希望に燃えることになる。村長の石井扇吉、郷土史家の石井正義などが賛同・協力し、まずは旧碑を求めて数回にわたる発掘を試みたが、結局見つからない。
 羽場は「楽翁公に私淑し又名勝保存の志ある」渋沢栄一を建碑事業の中心に据えた。楽翁-董威、渋沢-羽場というパトロンと企画者の相関が時を隔てて見られるのは興味深い。しかも渋沢、羽場ともに楽翁に私淑していたのだ。
 大正11年7月、羽場らの努力によって玉川碑再建のための「玉川史蹟猶興会」が発足。8月、東京府は猪方半縄の玉川碑の旧在地を「史蹟」に認定し、標識が立てられる。9月24日には講師として渋沢栄一、稲村坦元(東京府史蹟係)、八代国治(国史学者)、石井正義を迎えて、玉翠園内林間学校で「玉川史蹟講演会」が開かれる。その手早い段取は驚くばかりである。
 翌12年3月、渋沢は「勧進帳」を作り、財界に回した。自ら2500円を寄付し、財界から2150円が集まった。これに会費を加えると6000円を超した。渋沢はこの月、玉川碑陰記を撰文・揮毫している。(碑陰記の日付は楽翁の誕生日にちなみ前年の12月27日となっている。)大震災で玉川碑が倒れたことを知らせる石井扇吉村長の渋沢あて書翰が記録されているので、この年の8月までにはほぼ完成していたのであろう。石工は登戸の伊勢屋五代目吉沢耕石である。
 13年4月13日、震災のために延期となっていた除幕式が玉翠園で盛大に行われた。しめくくりの渋沢の講演は玉川碑再建の経緯と楽翁の顕彰を喜びのうちに語ったものだった。なお、この日は楽翁の命日であった。
 うっかりすると見落としてしまうが、玉川碑の塚の向かって右の根方に二首の和歌を刻んだ1メートル足らずの石がもう一つ立っている。

  建碑 玉川のその名所(などころ)も末遠く伝ふしるしの小松石文
  後楽 願くは千年(ちとせ)の後も来り見む百千萬(ももよろず)の子鶴引ゐて

  「羽場順承誌す」とあるから自作であろう。建碑事業に奔命したプロモーター羽場の矜持と感慨が深くこめられている。
 建立地が猪方の旧在地と大分はなれてしまった経緯は不明だが、玉翠園一帯の開発プランと関係があったのかもしれない。