戦争が激しくなり、青物市場も機械工場に変わり、統制経済で銀行町は様変わりしてしまった。敗戦後は、表通り沿いだから、黒人や白人の進駐軍もときどき立ち寄り、B券という専用紙幣で珍しいものを買っていった。「早くいえば冷やかして、女の子でもいればチョコレートをくれて喜んでいる。ことばがわかんないけど両方でわあわあ。」
 昭和二十四年バスが復活、バス侍の名は期待を込めて「狛江銀座」とした。狛江銀座の名称は、美代屋を開店した三角民五郎さんが思い付き、昭和十七年すでに売り物の下駄の裏に張るマークに使っていたという。
 お会式を、狛江銀座の親和会で始めたのは昭和二十六年頃であった。商店街では、人を寄せて売り出しをしようというねらいがあった。お祭りする法塔さま(題目の石塔)に謂(いわ)れがある。谷田部勇さんの三代前の瀬助さんが、からだが弱くて熱心に日蓮宗を信心し、治った記念に講元として奉納したもので、昔の講中の人の名がたくさん刻んである。たびたび移動させたが、その頃旧道と新道にはさまれた三角の土地に立っていた。
 十月十三日がお会式で、どんどこどんどこ景気よく題目を唱え、道路に露店がひしめき、あちこちの万灯(まんどう)が多いときには八本も来て練り歩いた。親和会はお揃いの半纏を着た。万灯に来てもらうと、先方の登戸・初山・鶴巻などのお寺のお会式に、こっちからもお返しに参加しなければならない。トラックの荷台に二、三十人乗って行き来したが、交通事情からもやがて難しくなってしまった。
 銀行町は商売に積極的であった。花火大会をして、花火の中から降りてきた旗を拾った人に賞品を出したり、ネオンサインも真っ先に商店街全部に付けたり。しかし車の流れが激しくなりすぎた。一時狛江三叉路といえば交通渋滞の名所になり、道路幅を大きく拡げた。今かつての熱気は見られない。