時代物のロケでしばしば登場する「五本松」の少し上(かみ)に和泉亭という料亭ができたのは小田急が開通(昭和2年)した頃のことらしい。トタン屋根の平屋で、鉄の蛇寵(じゃかご)を立てた門柱の両側は竹の穂の時雨(しぐれ)垣であった。休日にはお花見、アユ釣り、遊泳のお客さんでにぎわった。玉翠園(ぎょくすいえん)に比べ規模は小さかったが、安直なところが受けたようだ。下手(しもて)の松林には飾り提灯(ちょうちん)をかかげた出店が何軒も並んだ。
 その頃、五本松から玉翠園に至る土手には、かなりの樹齢の桜の並木が続いていた。明治時代に植えたものという。堤防の改修が進むにつれて、次々に切られていった。その後、堤防の内側の根方に桜の苗木を植えて更新を計った。今も残る狛江高校付近の老木の何本かは当時の生き残りであろうか。
 仲良しの友だちが和泉亭で働いていたので、よく遊びに行ったという荒井タケさんは、「さくらんぼ」という駄菓子がよく売れていたのを思い出す。「さくらんぼ」はお花見に付き物の麩(ふ)菓子で黒砂糖をぬったもの。長いのは1メートルもあり、お土産に買っていく人も多かった。
 花見時には仮装を凝らした団体がにぎやかにやってきた。その頃のお花見には仮装は欠かせないものだった。地元の青年たちも負けずに派手な衣裳で繰り出す。泉龍寺門前の大泉亭が勢揃いの楽屋となった。(大泉亭は若者たちの集まる飲み屋。小学校に開かれていた「夜学」帰りの若者がたむろする格好の場所であった。)何人かいた新潟美人の娘さんも鳥追い姿ではなやかさをそえた。
 畑や河原で働く人たちは、手を休めて、次々にやってくる仮装の行列を見送った。多摩川には紅白の幕をめぐらした屋形船が行きかい、春風長堤(しゅんぷうちょうてい)ののんびりした風情であった。
 和泉亭は昭和13年頃、和泉多摩川駅付近に移って川魚料理の営業を続けたが、戦後まもなく廃業した。