多摩川の水面は、昔は今よりずっと高く、しかも堤防は低くて所々とぎれていた。上流の深い森林のおかげで、多少の雨なら急激に増水することもなかったが、年に2、3回は大水が出て渡船場がとまり、年に一度ぐらい千町耕地いっぱいに水面があがってきた。人家が全くない千町耕地は、増水した時、遊水池の役割を担ったといえる。しかし明治末年頃の大洪水はものすごかった。千町耕地を西にのぞむ荒井昌平家では、昌平さんの母親が嫁いで来て日も浅いころ、障子の桟まで浸水し、畳を上げて、家の中を舟で漕いであるいたそうである。
 北多摩郡農会報によると明治40年8月24・5日の洪水は、上流拝島から下流砧まで「実に50年以来の大災害」であった。本橋兼吉さんは和泉地区で、土手が流され始め、「ひびのいったところからドカンドカンと崩れ」る瞬間を、友だちと一緒に目撃したという。西河原公園から狛江高校の一帯は湖のようになり、田んぼは砂利山になってしまった。狛江村の被害面積は、全村の三分の一に近い。
 この時、猪方では、濁水が奔流して来ないように、猪方用水をもとの江戸屋の店のところでせき止めた。しかしこの堰を越えた水が、猪方の台地の上を縦走して、静かに小川盛光さんの家の庭先まで流れ込んできた。井戸に入らないよう庭を掘って清水川へ落としたという。一方、猪方用水を止めた処置で、水が逆流し和泉の被害が一層大きくなったという抗議の文書も残っている。
 この大決壊の補修も終えない明治43年8月、また大洪水が襲った。
 柳沢(やぎさ)の市川常吉さんは、二度とも床下すれすれの浸水で庭に舟が入って来たという。田中の石井干城さんの家は床上45センチの柱のしみが、洪水の跡として残り、また泉龍寺の弁財天池の石の祠の屋根が見えかくれしていたという話も聞く。この時の川普請で、十幹森(とうかんもり)(東和泉1-34付近)の三つの塚は、赤土を皆運んでしまい、今は跡形もない。