薩摩・長州を主力とする新政府軍に、江戸城を明け渡した後も、幕府の旧臣たちの多くが、謹慎中の徳川慶喜を守るといって上野の山に頑張った。新政府軍が、これを打ち破ったのが上野戦争(明治元年五月)である。狛江を通り抜ける鎌倉道を落ちのびていった武者は少なくなかった。
 和泉村を知行する旗本石谷清倚らの一行も夜陰にまぎれて、入間村(調布市)の御用商人油屋清兵衛をたたき起こし、いささか態勢をととのえて菩提所の泉龍寺まで送らせたという。
 高木雄一さんの家には、裏の鎌倉道を落ちのびてきた武者が、荷物が重いといって、葵(あおい)の紋の付いた木製のお神酒(みき)どっくりを預けていった。おじいさんが「これは預かっているんだ。だれだかわからないんだ」と言っていたそうである。
 高木さんからいくらもはなれていない鈴木正平さんのところでは、駆け込んできた徳川様の玄関番を二階にかくまい、おむすびだのを持っていって食わしてやった。お礼に刀や槍を置いていっただけでなく、この縁で鈴木家から嫁に行き姻戚になったという。斎藤ナオサクという人で、士族だった。
 また猪方の谷田部博さんの家では、その頃旗本戸田山城守忠□の庶子を里子に預かったまま、すでに成人してしまっていたが、上野の戦争のときこの縁を頼って、山城守の一行が立ち寄り、百姓の格好に着替えて逃げた。御落胤(ごらくいん)は当家に実子がなかったのをさいわいに養子となった。博さんの祖父甚蔵さん(明治四十二年没七十八歳)通称ハツゾウ、はっちゃんである。山城守は「刀をえら置いていった」が、しゅうとめが、「人を斬った刀はだめだ」といって処分してしまったという。博さんのおじさん周平さんは、日露戦争に従軍し、のちに分家したが、祭礼などのときにかき氷などを売る店を出し、山城屋と称した。