昭和二十年四月、日本中学校三年生になった杉本忠良さんは、学徒動員で東京航空計器狛江工場に来ることになった。工場には多くの職員に混じって日本女子大学と二階堂女子専門学校の学生もきていた。そこで中学生に与えられた仕事は航空機の自動操縦装置の部品検査だった。小さな部品で、しかも百分の一、千分の一の誤差を見つける仕事だったから、初めはすごく神経を使った。
 やがて終戦が近づくにつれ資材不足も深刻になり、ついに新品を作ることができなくなった。そこで不良品の中から使えそうなものを探し出して使うようになったが、もともと不良品だったものを使うのだから、それを取り付けた飛行機が上空でどうなるか、検査しながらも心配な毎日になった。
 B29の本土空襲は怖かった。各地で軍需工場をねらい大型爆弾を次々に落としていたので、警戒警報が鳴り、大編隊が近づいて来たときには逃げろという指示が出されていた。ときには伊豆美神社をめがけて一目散に走っていっては本殿の下にもぐってB29の通過を待った。さいわい東京航空計器は爆撃を受けることはなかったけれど、八月十日頃になると、どこからか敗戦のうわさが流れていた。
 八月十五日の終戦放送は全員外に出て並んで聞いた。戦いは終わったが自分たちの動員はすぐには終わらなかった。しかし兵隊たちは、残っていた材料でさっそく鍋釜や弁当箱を作っていた。
 戦争でわが家は焼かれた。ものすごい食糧難である。じっとしていては食べることができない。特に母が病気だったので中学三年生だというのに工場帰りに大根を買ってぶら下げて歩いたり、また渡し舟に乗って登戸に行き山羊の乳を買ってビンに入れて下げて帰ることもあった。これも登戸の話だが、桃の場合は制限があってたくさん持っていて見つかると取り上げられるのでいくつも買って帰ることができなかった。