小足立辺りの農家が孟宗竹(もうそうちく)を植え始めたのは、日露戦争後のことである。大正時代になると「西山の竹の子」と言われ、評判は「目黒の竹の子」をしのぐようになる。西山は東京の西郊ということで、北多摩一帯
の総称だったようだ。戦後は宅地化が進む一方、水位が下がるという環境の変化があり、竹やぶは次第に減っていった。
 大正以後、東京の野菜需要が急増し、それにこたえて農家は野菜作りに力を入れるようになる。手間のかかる養蚕を切り上げて野菜に変えていく農家も多かった。夏はキュウリ、ナスを中心に、スイカやマクワウリも作った。その後にはハクサイ、ツケナ、ダイコン、ニンジン、ホーレンソウ、コマツナなどを蒔いた。
 昭和になると、トマトやピーマン、キャベツなどが畑を彩るようになる。小足立・覚東はサツマイモやサトイモがよくでき、猪方や駒井はゴボウ、ネギなどが盛んに作られた。狛江には特産というほどの野菜はなかったが、駒井のオオイシタカブ(二月に種を蒔き、よしずで覆いをして風や霜を防ぎ、五月に収穫するコカブ)やネギは市場で歓迎された。戦後は東京都の農業改良普及員の指導でレタスなどの西洋野菜が試作される。レタスの嗜好はなかなか普及せず、近くの市場では値が付かないので新宿の市場まで持っていったとは三角民五郎さんの話。その頃、青年団産業部や農協の研究もあって、ブロッコリー、カリフラワー、レタスの本格的栽培に発展する。
 駒井の間鍋喜代治さんは昭和三十二年頃、農協の斡旋で長野県から運んだセロリーの苗を田んぼに植え付けたが、高冷地で育った苗だからうまくいかない。いろいろ考えた末、裏の小川の縁の涼しいところに種を蒔き、寒冷紗(かんれいしゃ)を使って丈夫な苗を育てた。農産物の品評会では一等に入賞し、四、五年続けて作った。しかし量産とまではいかず、出荷の態勢がととのわないままにやめてしまった。