6月1日は、多摩川のアユ漁解禁の日。狛江では、午前零時になると、和泉にあった登戸への渡船場(現在、貸ボート屋のある付近)の辺りで、合図の花火を数発打ち上げた。花火の打ち上げは、戦中は中断されたが、戦後10年ほどの間は行われていた。
 和泉や猪方、駒井などでは、前日の夕方、早くも、解禁を待ちうける東京からの親戚や知人の客でにぎわう家も少なくなかった。宿河原の松坂仙蔵さんのところでは、多いときには10人くらいの漁好きな客が泊まり込んで酒をくみかわし、花火の上がるのを待ったという。
 10月15日から5月いっぱいの禁漁は、猪方の谷田部周平さん(明治16年生)の記憶では、日露戦争の頃からであった。狛江に漁業組合ができたのが、明治37年である。大正12年に猪方地先に堰(宿河原堰堤)ができてから、のぼってくるアユはここで遮られるので、狛江のアユ解禁は、一時期随分にぎわったという。
 昭和10年代頃までは、それは多くのアユが多摩川に群れ、川の瀬に足を入れると、「ぶつかるほど」とか、「踏んづぶしてしまうほど」いたそうだ。網を打つ「漁船(りょうせん)こ」を乗り入れると、「びっくらした」アユが船にとび込んでくるほどだったという。アユが寄っている場所に行くと、プーンと西瓜を割ったようなにおいがするから、よく覚えておけ、と漁師だった祖父から言われたものだと松坂仙蔵さんは話す。
 大正の末頃までは、アユ漁の季節に、獲れたアユを日本橋から神田、築地、新橋辺りまで運んだ。竹で編んだ舟形の籠に熊笹を敷いて、大ぶりのは7、8尾、小さいのなら14、5尾のアユを並べたアユ籠を、10枚から14、5枚ずつ麻縄で一束ねにし、前後に振り分けにして天秤でかついだ。夜中から明け方に寄せ場を出て、駆け足で運んだものだが、宿河原の大津善三郎さんは、明治の中頃から末にかけて、健脚で鳴らしたかつぎ屋だったと語り草になっている。