駒井の高橋三五郎さんが亡くなった翌年の昭和六十年、狛江にただ一画だけ残っていた水田が姿を消した。高橋家の人たちは感慨を込めて、最後の稲刈りをした。以下は昭和五十五年、長年続けてきた米作りについて語った三五郎さんの話である。
 大正の頃「せきわせ」という品種を作っていた。味がよく、お寿司にはもってこいのお米であった。米屋さんが高値で買っていった。このほか「泥棒もち」という餅米も作った。労せずしてめっぽう収穫の多い品種であった。米の売り買いは二俵の一駄で十円くらい。米騒動(大正七年=一九一八)の頃は値が上がり、十五円を超えた。
 田んぼの水はもっぱら泉龍寺の泉から流れてくる清水川(駒井用水)に頼っていた。しばしば用水路の堀さらいを行い、十分な水を確保するように努めた。収穫が終わると水年貢をお寺に持っていく。二俵分を反別に割り当ててお米を集めた。
 肥料は赤坂一ツ木の方まで汲みに行った人糞が主であった。大八車を引いて夜の明けないうちに出かけたのである。行く家は決まっていて、大家(おおや)にお金を払って汲ませてもらう。「大家のばばあ、くそ喰らっている」などと悪口を言ってうっぷんを晴らしたものだった。大正に入るとしめかす(にしんかす)や豆かすを使うようになる。豆かすは直径八十センチ、厚さ十五センチほどの大きな円板で、肥料屋さんが貸してくれる機械で細かくした。後にはかますに入った粉末の「豊年かす」を使うようになる。
 岩戸の久野忠さんは博労(ばくろう)をやっており、代掻(しろか)きの頃になると馬を貸した。近所の三、四軒が組んで馬を借り、順番で馬耕をした。
 収穫は一反五俵がふつうであった。小作は二俵半を地主に納めた。六俵取れば三俵半が手元に残る。逆に四俵しか取れないときはピンチとなる。こんなときは地主に交渉してなんとか負けてもらった。