府中の大国魂神社では、「八朔(はっさく)の相撲」といって、八月一日に相撲祭りが行われる。神主による式の後、近在の人が集まって境内の土俵で相撲を取った。狛江からも力自慢の若者が出かけていくことがあり、和泉の荒井昌平さんのおじいさんなどは、八朔の相撲で勝ち抜いたそうだ。
 昔、和泉に石井歌右衛門という力持ちがいた。三人力といわれ、伊豆美神社の鳥居の脚をかついで歩いたという。武家の石谷友之助がもう片方の鳥居の脚をかついで、今の和泉多摩川の駅近くの、多摩川のヨドと呼ばれるところをくるっとまわり、伊豆美神社まで歩いてきたそうだ。二人とも足駄(あしだ)履きのいでたちであったが、石井歌右衛門は大力でかつぐので足駄の歯の跡が地面にくい込むように付き、武術の技でかついだ石谷友之助の足駄の跡は、地面に残るだけであったという。この歌右衛門が、ある年、大国魂神社の八朔相撲を見物に行ったところ、孟宗(もうそう)竹が茂っていてよく見えない。抜いてしまえと言われて、片手でひょいと、こいでしまったという。
 時代はさかのぼって戦国時代のこと、岩戸に秋元仁左衛門という大力の者がいた。鬼の仁左衛門といわれ、評判の力持ちだった。子孫の秋元重光さんのお話では、あるとき、鎌倉へ行く領主の一行のお伴をしていき、鶴岡八幡宮の境内で催された神前相撲で勝ち抜いて優勝した。望みのものを何でも取らせると言われ、鶴岡八幡の御神体をと願ったところ許されて、いただいてきて祀(まつ)ったのが、今の岩戸の八幡様だといわれてきたという。
 力自慢の若い衆が、夏になると、伊豆美神社や岩戸の八幡様などお宮の境内に集まっては、相撲を取って力比べをすることが、娯楽の少ない時分には随分盛んだったものである。銀行町などでも、足袋(たび)屋(東和泉一の五、現在は駐車場)の辺りで相撲を取り、喜多見の方からも力自慢の若い衆がやってきた。