東野川の栗山徳三さんは、十五歳のとき小覚(小足立と覚東)の楽隊の隊員となる。大正の中頃のことである。楽隊は七人から八人の編成で、楽器はラッパ、横笛、大太鼓、小太鼓、中でも主役は横笛であった。この楽隊は日露戦争後にできたものらしい。
 音楽の好きな者が集まってくる。それぞれの楽器の習熟者がマンツーマンで新人の教育に当たる。楽譜があるわけでもないし、あっても読めない。とにかくやっているうちに覚えてしまうのだ。入営兵の見送り、運動会、お花見などが活動の場であった。春が来ると、楽隊を先頭に仮装の村人も加わって花の小金井堤を目指す。歩いていくのだから何時間もかかる。楽隊が行列の気勢を盛り上げる。曲は「戦友」や「橘中佐」。
 この明治調の楽隊は一時中絶したらしいが、日中戦争頃から、小足立、和泉で再び復活する。南京陥落を祝う村民の提灯(ちょうちん)行列はとりわけはれやかな出番であった。
 昭和の楽隊は、クラリネット、バリトン、トランペット、トロンボーン、ラッパ、シンバルに大太鼓、小太鼓とたくさんの楽器を集めた。隊員が小遣いを出し合って買ったものなので大切にした。
 和泉では隊員は十人前後、青年団長の家の物置や伊豆美神社の境内に集まって練習を重ねた。入営や出征する人の家には、楽器を手にした隊員が早朝から集まった。楽隊が先頭となり見送りの人たちと行列を作って伊豆美神社に向かう。社前で武運長久を祈願した後、狛江駅まで送って行く。「暁に祈る」、「露営の歌」などを吹奏した。
 戦死者の村葬のときは自宅から役場の式場へ、葬儀が終わると菩提寺まで楽隊が先導した。英霊帰還の出迎えにも行った。楽隊の仲間が大陸で戦死、遺骨を狛江駅に迎えたときは、吹奏もとだえがち、なんともいえない悲しみを味わったと、谷田部啓治さんの思い出話。彼はトロンボーンの名手であった。