昭和の終わった年、狛江でナシを作っているのは駒井の三軒だけとなってしまった。戦前は猪方、駒井、和泉辺りでかなりの数のナシ園がみられた。大正の頃、品種は長十郎と早生(わせ)赤の二種。早生赤は早生といっても長十郎より収穫が遅れる。後になって二十世紀などが加わる。この辺りは地味がナシに向いているので、水田をナシ園に変えたところが多い。戦時中、食糧の増産が叫ばれるようになると、ナシ園は整理され、水田や畑に逆戻りした。
 猪方の栗原泰一さんは、大正頃のナシ出荷の思い出を語る。「収穫したナシはナシ籠(かご)に詰める。大きい物は一籠に四十個前後入る。この籠を十八から二十、荷車に積んで芝公園近くの仲買のところに引いていく。一籠七円から八円だから、一台で百六十円ぐらいになった。朝早く出かけて帰るのは夕方。夕方出て向こうで風呂に入れてもらい、泊まってしまうこともあった。翌日麻布十番の盛り場でゆっくり遊んで来るのがなによりの楽しみだった。」
 宅地化が進むと、風通しが悪くなる。消毒もまわりの住宅を気遣い、つい後手にまわる。後継者がいないことも追い打ちとなる。ナシ園の命脈もあとわずかというところへきてしまった。
 モモの栽培は戦前、多摩川右岸の南武線沿いに多かったが、狛江でも猪方・駒井付近で小規模ながら作られた。駒井の高橋栄太郎さんは中が真っ赤な天津モモを出荷して評判がよかった。モモは木に虫が付きやすく、ナシに比べて樹齢が短いこともあっていつのまにか姿を消した。
 狛江の農家の庭先にはたいてい禅寺丸という種類のカキの木が植えられていた。樹齢百年もあろうかという古木も珍しくなかった。実(み)は丸い小粒、果肉にゴマのある甘ガキである。枝を付けたままもいだカキは十個ほどをわらで束ねた。カキ籠に菰(こも)を敷いてていねいにくるみ、神田や三田の市場に運んだ。