昭和二十年五月二十五日の空襲で焼けた後、地域ごとに分かれて分散授業をした。駒井の円住院にも農家の縁台が持ち込まれて青空教室が行われた。仮設の黒板が用意され、首から画板を下げたり机の蓋だけ持った者もいて勉強した。教材・教具もなかったから、先生が地べたに生えていた一本の草を引き抜き、高く掲げて、「これが一だろ」草を半分にちぎって、「これが二分の一だ」と教えたという。心にしみる授業である。
 やがて戦争が終わり軍需工場が閉鎖されると、軍需工場の建物を使って授業が始められた。昭和二十年度の六年生は湘南製作所で学んだ。ガランとした大きな建物の中が、板でいく部屋にも仕切られて教室に早変わりした。しかし天井板まで張ることができなかったから、上を向くと大きな屋根の下に何本もの梁が渡されていて、工場時代の名残りをとどめていた。いちばん困ったのは、その天井の空間を抜けて、他の教室の授業がそのまま伝わってくることだった。それでも旧制中学校最後の受験を目指して夜遅くまで頑張る子どももいた。
 狛江国民学校の校舎はなかなか建たなかった。財政難の村では昭和二十一年度から昭和二十三年度にかけて毎年少しずつ校舎の増築を行い、やっと全校生徒が一箇所に集まって授業を受けられるようになった。しかしそれまでは学年・地区別に、狛江国民学校(小学校)、湘南製作所、玉川医療器、四谷林間学校、国際電気の建物に別れて授業していた。
 玉川医療器もやはり大きな建物の中を仕切って作った仮設教室だった。資材のないときだったからボール紙のようなもので仕切ってあった。だからすぐに穴があく。両方の教室からお互いにのぞきっこをしたのも今は思い出だという。ガラスが割れてもすぐには入らない。暖房は大きな火鉢一つで炭火を起こすだけ。だから冬の寒い日にはできるだけたくさんの着物を着て登校した。そして、授業の合い間に「天空き体操」をして体を温めた。