六十日ごとの庚申(かのえさる)の日、宿に当たった家に集まり、庚申(こうしん)様を祀(まつ)って一夜を過ごす庚申講は、江戸時代には狛江のどの村にも見られたが、和泉の一部を除いて、いつの頃にかすたれてしまった。
 和泉の上南(かみみなみ)、山谷(さんや)、原などでは、今でも庚申講が形を変えて続けられている。上南では、昭和四十年頃、昔からの庚申講を「親友会」と改称した。会員の家々を宿にして、一月おきに寄り合いをする形は変わらないが、庚申様を祀る信仰の面はうすれた親睦会である。庚申の本尊とされる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を描いた庚申様のオヒョウゴ(掛け軸)は、月ごとに会員の家をまわり、その月の当番の家では、庚申または申の日などに、このオヒョウゴをかけ、お明かり、お神酒(みき)を上げ、ソバ(うどんのこと)などを供えて庚申様を祀る。
 かつては、小麦粉を集めて、庚申待ちの宿の家で当番の男たちがソバをつくったものである。水神前(西河原公民館の西)にある庚申様の石像にお明かりやお神酒、ソバなどを供え、両端に高張提灯(たかはりちょうちん)を立てた。宿の座敷に掛けたオヒョウゴの前にも同じものが供えられ、一同で拝んでから、会食が始まる。この夜は決めごとをしたり、農作物の作柄などを話し合ったり、「話は庚申の晩に」といわれるほど世間話などを楽しんだ。ジッケッコウと呼ばれる、無尽に似たくじを楽しむ遊びもやった。親友会と改称された今でも、ジッケッコウは行われ、一本十円ずつを出し合って遊ぶ。昔は、くじに当たると、そのお金を借りて、随分助かったこともあったという。これは花くじともいい、人数分より一本だけ多い竹の棒を筒の中に入れ、振り出して当てるくじである。
 山谷では、テレビが普及し始めた昭和三十三年頃、昔ながらの庚申講は姿を消したが、五十五年に親睦会として仲間を復活、一月おきに寄り合いを持っている。ここでもジッケッコウが行われていた。原では、集まりはないが、今でも庚申様の掛け軸が講の仲間の家をまわっている。