当時農村地帯だった狛江中学校には四Hクラブがあった。四Hとは、Head(頭)、Heart(心)、Hand(手)、Health(健康)の4つのHを象徴し、農村青少年の日ごろの努力と成果を競い合うものであった。桑原亥左雄先生の指導のもとに毎年さまざまな研究が行われたが、特に昭和二十八年には山本得子さんが「ホームプロジェクトとして実施した養鶏」の研究で、昭和二十九年には小町達男さんが「僕等の実施した緬羊飼育の体験」の研究で、ともに東京都代表として全国大会に参加していた。その後を受けた毛塚勝さんは「肛門鑑別による駄鶏淘汰」というテーマでこれも全国大会に参加して優勝した。
 肛門鑑別による駄鶏淘汰というのは、鶏の大量飼育をしている農家が、卵をよく産む鶏と産まなくなった鶏を区別するために、鶏の肛門に指を突っ込んで次に産む卵があるかないかを確かめる方法である。すべての鶏の足に番号を記した足輪をはめ、その一羽一羽を毎日捕まえて肛門に指を突っ込むと、次の日も卵を産む鶏はすでに卵ができているから指に触れる。産まなくなった鶏は触れるものがないから足輪の番号を見ながらそれを毎日記録しておくと、だんだんと産みが悪くなってくる状況がつかめ、ひよこの補充と産まなくなった鶏の処理ができ、餌の無駄を省くことができるという実践研究である。今と違って庭での放し飼いや大きな鳥小屋にたくさんの鶏をまとめて飼う時代だったから、どの鶏が卵をよく産むかがつかめなかったのでたいへん貴重な研究だった。
 その背景には当時の中学生の生活があった。家業としての農業を助け、努力することが日課であり、学習であった。いま市民グランドのあるところには四Hクラブ用の農場があり、中学生が緬羊を飼い、鶏を飼い、野菜を作っていた。また、鶏の病気が発生すれば中学生たちは薬品を持って各農家をまわり、伝染防止に努めた。生活そのものが学習であり、地域とともに歩む営みでもあった。