戦争は多くの若者たちを戦地にかりたてた。村役場の吏員が、召集令状を持って該当者の家を訪れ、心と裏腹に「おめでとうございます」と切り出すのは実につらかったという。召集令状を受けた者は、まず家族とともに別れの一夜を過ごす。親類縁者や近所の人も集まって、夜更けまで酒をくみかわし、赤飯を食べ、別れを惜しむ。
 いよいよ出発の朝、軍服に身を固め、両肩に赤いたすきと「初出征○○○○君」と書いたたすきを交差してかける。そして「初出征○○○○君」と書いた大きな幟(のぼり)を先頭に、多くの人たちとともに村の鎮守に参拝して武運長久を祈った。その後小学校の校庭で壮行会が開かれる。村中の主だった人が参列し、朝礼台の上に立った兵士に激励のことばがつづいた後、小学生からお年寄りまで大勢の人が居並ぶ中を、村の青年団で構成する楽隊に送られて、狛江駅から電車に乗って村を離れていった。
 出征兵士が出るたびに家族の者が村の人たちに頼んで千人針を縫ってもらった。多くの婦人たちが心を込めて赤い糸を通す。死線(四銭)を越えて元気で帰るように五銭玉を縫い付けたり、勇猛な虎は千里行って千里戻るという故事に因んで、特に寅歳の女性には各自の年齢数だけ糸を通してもらった。
 また、戦地への慰問袋作りもたいへんだった。食糧事情の悪い中、遠くまで行って食料を求め、児童の書いた作文や絵を添えて送り出す。後は役場から軍の輸送網を通って、だれの手に届くかわからないけど、やはり苦しみを耐えぬく戦地の兵隊であればと皆一生懸命頑張った。
 盛大だった出征兵士を送る行事も十八年頃を境にすっかり寂しくなった。たとえ出征兵士のためでも酒は五合と制限され、楽隊で送ろうとしても楽器を持つ若者がめっきり少なくなっていた。そのうえ月に何回となく飛び込んでくる戦死の公報には心も湿りがちだった。終戦間際の出征者は見送る人も少なく村を出ていったという話もある。