戦前の狛江は農村地帯だった。見渡す限り田畑が続き、屋敷林に囲まれた農家が点在していた。農家の生活でいちばんたいへんなのは田植えどきだ。今と違って田植機などないところに、短期間に水を引き、田を起こし、田植えをするのだから、皆の労働力を結集し、協力する以外に能率を上げる方法はなかった。そこで農繁期託児所ができ、共同炊事が行われることになった。
 農繁期託児所の始まりは昭和九年だったという。狛江小学校に設けられたものが初めで、女子青年団の人たちが参加し、いちばん古い校舎の二教室をつなげて託児所にした。床一面麦わらとその上に蓆(むしろ)を敷いて、子どもたちを昼寝させた。なにぶんにも遊び道具などない時代だったから、泥遊びなど外の遊びが主流だった。
 そのときの校長先生は吉岡順助さんといってたいへん温厚な方だった。手伝いの主婦たちに料理の方法やお握りの結び方を教えてくれた。そしてお握りを作るときに「お握りというのはただ握ればいいんじゃなくて、子どもたちに食べさせるんだから、『おいしいんだよ』という愛情を込めて握ってやると、手のひらからその心のぬくもりがお握りに伝わって本当においしくなるんだよ」と言ったことばなど、今でも忘れられないと言った人がいた。
 このような託児所は、後に愛国婦人会に引き継がれ、各部落(旧村)ごとに行われるようになった。駒井では円住院、岩戸では明静院、和泉では小学校など大きな建物が使われ、昭和十八年くらいまで続いた。
 また、共同炊事については昭和十六年から三年間駒井で行った。このときは農繁期の栄養と子どもの保育をテーマに東京府からも委託を受けたうえ、栄養士が栄養指導をして、朝・昼・晩三食の提供をしたのである。猫の手も借りたいような農繁期に主婦たちがどんなに助かったことであろうか。