上小足立の冨永イッケ(一族)の共同墓地には、一匹の犬の姿を深彫りした墓碑がある。これは、冨永武男家で何代か前に飼われていた愛犬カメの墓である。カメはたいそう賢い性質のおだやかな犬で、子どものお守りをしたり遊んだりして、村の人からもかわいがられていた。
 このカメの墓にお参りすると子どもの夜泣きが治ると、いつの頃からかいわれるようになった。「夜泣きしてはいけないから、お犬様にお参りに行こうや」などと言って、子どもを連れてお参りしたものだという。戦前までのことである。
 和泉の荒井久孝家にも、温慈意(おじい)と呼ばれる犬が飼われていた。荒井家の屋敷内には、温慈意像とされる狛犬ふうの石像と、温慈意をしのぶ碑文を刻んだ石碑が残っている。その碑文は、当時の荒井家の当主が、玉川先生といわれていた和泉村出身の儒者小町雄八に撰文を頼んだもので、温慈意の死の二年後の天保四年(一八三三)に、死に場所になった多摩川のほとりにこれを建てた。後の大正年間になって、多摩川の堤防改修のため、屋敷内に移したという。
 その碑文によると、昼のうちは村の子どもをよく遊ばせ、夜は人家をめぐって盗人など非常の事態を防いで人心を安らかにし、鶏の争いをも収めるなど、人びとのよく知るところとなったという。また、死後、多摩川のほとりの墓前に、ある人が線香をあげ一椀を供えて、子どもの病気が治るように祈ったところ、願いがかなえられた。小さな幟(のぼり)を立てて子どものために祈ると、やはりその験(しるし)があった。これより後、諸方からお参りにくる者がたいそう多くなったと刻まれている。
 大正の初め頃までは、子どもの夜泣きなどを治すことを願って、温慈意の墓にお参りする人も見られたそうである。
 夜泣きを治すためのさまざまな呪(まじな)いも伝えられていた。「信田(しのだ)の森の白狐 昼は泣くとも夜は泣くまい」と書いて枕の下に入れておく、など。