正月前後、男の子は独楽(こま)げんかで技能を争った。回っている相手の独楽めがけ「叩(たた)きつけて、相手を向こうにすっとばしちゃって、自分のは回っていれば、それが勝ちなんですよ」。双方回っていたら、紐(ひも)のふさではたいて勢いをつけ、さらに近寄せて「しっちゃけ」(挑ませ)る。
 土が固まっていて砂利の少ないところがいい。松原の鍛冶屋の庭先、田中稲荷の前の道など、子どもの集まる格好の場所となっていた。
 回し方に二通りある。覚東の子は「横からもっていってぱんとやる。それで紐が短い。向こうの箕和田の方はね。やり方が違うんですよ。上の方からこうやってぶっつけて。紐が長いんですよ」。和泉の田中橋周辺の子は普通上から「ぶつけ」たが、仲間で強い飯田軌作さんは、赤んぼをおぶったままで、横から当てた。これは、相手に命中しない限り、自分の方が遠くにとんでいってしまう。こちらの心棒を相手の胴に真上から命中させるのを「のんこつ」という。相手のたがをぶちはずし、自分はカッカッと回っていれば大得意。反則としたこともある。いずれにせよ力いっぱいだからときには大怪我をする子もいた。
 既製品の独楽は大きいのがなく、たがが鋳物(いもの)で割れてしまうことがあり、いい独楽には太刀打ちできない。非常にいい鋼(はがね)でたがを作ると、ビーンと回っているやつに触れた相手はとばされてしまう。鋼のたがが子どもの望みであった。飯田哲男さんは直径十センチもあるのを持っていて当時最強を誇ったという。飯田總智さんの家が大正の頃まで鍛冶屋をしていた。子どもは鍛冶屋にたがと心棒だけをあつらえ、次にろくろ屋に持っていって樫材の胴(台)を作ってもらうのだ。胴は金槌でたたき込むから傷だらけになるが、上手にできているとはずれない。それを二、三カ月ドブにつけた。肥溜(こいだめ)の中につけるのがいちばんともいわれた。
 独楽のたがを注文できる村の鍛冶屋は、昭和一ケタ頃まであった。ろくろ屋の方は、岩戸の三角さんがいちばん後までやってくれたようだ。