昭和六年、長男が穂高岳で遭難死、九年に夫人、十年に次男が相次いで病死。さすがの「国士」中野正剛も大きなショックを受けたようだ。こんな日々、救いは乗馬だった。
 昭和十年頃土地を猪方(猪万三の一二付近)に求めて別荘「慈雨荘」を新築した。近くに七百坪もあろうかという馬場も同時に造った。暇をみつけては代々木本町の本宅からやって来た。馬場で乗る、猪方から駒井を巡り多摩川の土手を走る、ときには家族の眠る多磨霊園に墓参りをして代々木に帰るという遠乗りも試みた。
 大正十五年、整形手術のミスから左足を切断した後は、義足を用いていた。馬場で練習を重ねた義足の騎手は、ついに障害レースまでこなすようになる。
 大戦中のある日、菅原神社の社務所に集まった村人たちを前に話した中野の言葉を、谷田部博さんは、はっきり記憶している。「田んぼのオタマジャクシは水がいっぱいあるときはうじゃうじゃ泳ぎまわっているが、だんだん水が干上がってくるとわずかな水を求めて一カ所に集まり、結局みんな死んじまうんだ。」戦局の見通しを例え話として語ったのかとも思われるが、聞く人たちは「そんなことあんめい」とささやき合ったという。
 別荘の管理をまかされていた谷田部さんの家には気軽にやってきた。台所にふかしたてのサツマイモを見つけると、さっとつまんでしまうという野人ぶりであった。庭先で遊ぶ子どもたちに「お金やるか」といって懐から大きながま口を取り出すが、小銭が入っていない。「うそを言っちゃいけない」とてれながら書生さんから借りて渡すこともあった。
 谷田部家の日頃の労を謝して中野の贈った書には「起向高楼撞暁鐘」(起(た)ちて高楼に向かい、暁鐘を撞(つ)く)とある。東条軍閥に立ち向かう「暁鐘」は、やがて自決につながることになった。