奥多摩の土場(どば・上流から流した木材を集めるところ)で組まれた筏(いかだ)は青梅に集まる。ここで3枚つなぎとした筏は、立川、府中、登戸辺りで泊まりを重ね、4日目に六郷に着く。途中、普濟寺(立川市)の崖下などの難所があり、下流の方では、上げ潮のときは「流れに樟さす」重労働が待っている。樟を肩に当てて押していくのである。筏流しは明治後半がもっとも盛んで、大正末まで続いた。
 六郷用水の取り入れ口のところには、粗朶(そだ)や蛇篭(じゃかご)で長い堰(せき)が造られていた。この堰は筏が通れるように十間ほどの幅で開かれており、「筏どうせ」といわれた。「筏どうせ」に杭を打ったりして流れ道を妨害し、筏乗りに酒手をねだる不心得者も時にいたという。
 川向こうの菅、登戸、宿河原には筏乗りを泊める筏宿が何軒かあった。狛江宿河原の松坂仙蔵さんは小学生の頃、筏乗りがときどき泊まっていったことをおほろげながら覚えている。
 筏を六郷まで運んだ筏乗りは、今度は陸路を徒歩で帰っていく。蓑と笠の身軽な急ぎ足である。彼等の通る道は筏道と呼ばれたが、多摩川の両岸にいくつかのルートがあったようだ。右岸の中野島付近には筏道と呼ばれる道が今も残っている。狛江の品川道、六郷道は筏道の一つのルートであった。
 中和泉一丁目、現在のグリーンハイムのある辻には造り酒屋があった。屋号は大隅屋、通称角店(かくみせ)、地酒「鮎正宗」の醸造元であった。
 筏乗りは角店の畳敷きの出っ張りに腰を下ろす。店の中には四斗樽がいくつも並べられている。店の人が樽の呑口(のみくち)をギュッギュッと鳴らして、縁の厚いギザギザのついたコップにこぼれるくらいの酒を注いでくれる。肴は醤油をかけた豆腐の角切りである。一杯機嫌の筏乗りたちは、今宵は五宿(国領、上・下布田、上・下石原)か府中に泊まることになるはずだ。