戦後間もない頃までは化学肥料などめったに使えなかったので、人糞は貴重な肥料だった。農家の人たちは朝早く起き、荷車に樽を積んで、東京に向かって歩いていった。途中多摩川の向こうから渡し船を使ってくる人たちとも合流して、世田谷通りはガラガラという荷車の音でとてもにぎやかだった。そして大蔵病院の辺りで日の出を迎えた。
 行く先は、大正から昭和の初期まで、猪方、岩戸の人たちは青山から赤坂まで、小足立・覚東からは甲州街道を通って四谷辺りまで行ったという。当時の世田谷はまだ農村地帯だったのでここでも需要が多く、狛江の人たちに持っていかせる余裕はなかったのだ。また農家は汲ませてもらう立場だったから、汲み取り先のお宅には野菜をお土産に持ち、その上毎年何がしかの汲み取り料を払っていた。だから汲み取る方と汲ませる方の間には無言の約束ができていて、よその者には汲ませなかった。しかし戦後は住宅地域が西の方に発展したこともあって汲み取り場所もだんだんと近づき、明大前・若林・三軒茶屋辺りでも十分汲み取れるようになった。そして汲み取り料も取られることがなくなった。
 普通の人は大八車一台に五本の樽を付けた。かなりの重さである。特に一日中働いて疲れたからだで成城の坂を下るのはたいへんだった。戦前の話だが、農家の子どもは学校から帰るやカバンを置き、父親の帰る時間を見計らっては大蔵病院の辺りまで出迎えに行ったという。当時大蔵病院の辺りは一面の草原で、一箇所だけ清水が湧いているところがあった。そこにはいつも車が止められて、疲れた農家の人たちの憩いの場所になっていた。清水で顔を洗い、口をすすぎ、木陰でひと休みした。そして下り坂では皆で後ろを引っぱりながら順送りに出発していった。
 戦後はリヤカーになり、あるいは牛車になり、だいぶ楽になったが、昭和三十年以後、化学肥料の普及から需要が減少したこともあって、農家による汲み取りは行われなくなった。