「六郷用水に落ちて来る少し上手でも、両岸にはまだ萱原笹原が残り、川楊の根株を洗って居るやうな処もあつて、いかにも野川の名がふさはしく感じられる。」(柳田國男「水曜手帖」)。野川は、狛江の北部を縦貫して六郷用水に合流する豊かな水脈であった。
 土地の人は大川と呼んだ。子どもたちの格好の遊び場であった。水遊びをしたり、魚釣りをした。フナ、ハヤなどがたくさん釣れた。ドジョウやシジミ捕りにはざるやふるいを持って出かけた。シジミをたくさん捕って住宅に売りにいった子どももいた。カタッケ(カタハガイ?)という天保銭のような形の貝もときどき捕れた。堰(せき)の下では水車がのどかにまわっていた。
 秋になると大人たちは堰の水を落として魚をすくった。ウナギ、コイ、フナ、ナマズ、ハヤからスッポンまで大量の収穫があった。
 昭和の初め頃、大工の鈴木正平さん宅の近くに、小笠原長生(海軍中将)の別荘が建てられた。この家には令息の章二郎さんが住んだ。若殿様が似合う映画俳優だった。小笠原は船大工に三間ほどの川船を造らせ、野川に浮かべた。正平さんのお父さんを誘ってはゴダイ橋と堰の間を往復し、もりで大きなコイをねらったりして、船遊びを楽しんだ。この船は大水の出たある日、つなぎ止めた綱が切れ、忽然と姿を消した。
 日照りの日が続くと、村の人たちは大山に雨乞いの水をもらいにいった。ゴダイ橋のところに梵天を立てて神主さんを迎え、「サンゲサンゲロッコンショウジョウ」と称えながら竹筒の水を野川に注(そそ)いだ。
 かつて野川にかかり、今はバス停に名をとどめる御台(ごだい)橋は、昔は五大橋、五代橋と書かれた。「御台」の字が当てられたのは昭和36年からである。中世、この辺りは有力寺院の寺領で、五大明王を安置する五大堂があったのではないかという説がある。また、湿地・泥地をゴダ・コダ・ゴダイなどと呼んだ語源に発した地名ということも考えられる。