戦前までは満二十歳(戦争末期の昭和十九年から終戦までは満十九歳)になると徴兵検査を受け、これが男子の一人前とされた。一方、村の暮らしの中では、昔の通り十五歳を一人前とし、十五の祝いがすめば、村仕事として全戸に義務づけられていた春秋の彼岸などに行う道普請(みちぶしん)に出ても、一人前に扱われた。
 今では成年式は満二十歳に行われるが、かつては男子は十五歳になると、十五の祝いをしたものだった。駒井では、この習わしが大正の頃まで見られ、十五の年の正月の吉日、赤飯を炊いて祝い、紺絣の着物に羽織姿などで、氏神様の日枝神社にお参りした。このときの羽織と着物は、一人前の男として、初めて一疋(ぴき)(二反)の反物を使って仕立てた。この祝いがすめば、若い衆組の仲間入りができたのである。
 十七、八歳を男子の一人前としたともいい、小学校を終えた年に職に就いたり、親方に弟子入りしたりした。
 男子が一人前になると初めて大山参りをする習わしもあって、明治三十年代までに生まれた人の中には、その年に大山に行った人もある。
 女子は初潮を見ると一人前になったといい、赤飯を炊いて内祝いをする家もあった。昔は今より初潮年齢が高かったので、心身ともに一人前として扱われたのであった。着物の暮らしが普通の時代には、このときから腰巻を着けるようになる。
 仕事の上での一日の一人前の基準は、田植えならば「取り植え八畝(せ)」といって、苗代から苗を取って田植えをする仕事量を目安にした。場所によっては取り植え五畝でも一人前に見た。畑うない(耕すこと)では四日で一反(一日に二畝とも)、また、縄ないは一日に十ぼ(一ぼは二十尋(ひろ)、一尋は両手を広げた長さ)。田畑の仕事は女なら、この三分の二でよしとされた。女の仕事の一人前は、煮炊きや縫い物の一通りのことができ、ソバ(うどん)を上手に打てることだった。