明治二十二年に町村制により狛江村が成立して以来、村役場は、泉龍寺本堂内の大きな廊下(八尺間(はっしゃくけん))の西端に陣取っていた。今見ると狭い場所だが、四百戸余の村だから職員も数人にすぎなかった。
 泉龍寺本堂は、今も宝永三年(一七〇六)に再建された時の骨組みを残す。おそらく市内最古の建物である。和泉の会合としては、毎年正月ここを会場として初寄合(はつよりあい)を開き、伊豆美神社の行事をくじ引きで決めた
りしていた。岩戸八幡神社の社務所ができる以前、岩戸の寄合が明静院本堂を会場としたのと同様である。
 泉龍寺に役場を置いたのは、明治十七年に和泉村外六カ村戸長役場(和泉・猪方・駒井・岩戸・小足立・覚東・大町)からともいわれるが、この範囲の地域のほぼ真ん中だったからであろう。小足立・覚東からは遠いから、税金は学校に通う子どもにもたせて納めた話をよく聞く。受付の窓が高いところなので、五から六尺の長い学校用の腰かけが踏み台に置いてあった。しょっ中払うわけでないから、「はい税金」と言って差し出すと、「おまえんとこじゃ、繭(まゆ)、売ったナ」なんていわれた。
 税金の通知を村中一軒一軒届けるのは、横宿(よこじゅく)の石井甚之丞さんの仕事だった。おしずさんと年寄り夫婦ともども役場に勤め、孫嫁のおかねさんが弁当を運んでいくと、炊事場がないから長火鉢でお茶をわかしてい
たという。石井さんの庭に巨大なキササゲの木がある。これは当時村役場で三本入手したうちの一本を甚之丞さんがもらって植えたのである。
 泉龍寺の本堂は、村のさまざまな会合に使われた。冨永泰一さんは、明治四十年代から大正一桁の頃の狛江共同貯蓄組合創立の会合、蚕病予防の講演会、府議当選者秋本・井上両氏の名刺配布会、時局問題を協議する会合、帝国議会候補者につき相談する会などの案内状を保存している。会場はみな泉龍寺である。役場は大正十三年、旧一小の西南の一角を仕切って移転したがその後も村時代の大きな集会は泉龍寺を使った。