昭和28年に多摩水道橋が開通、和泉と登戸はストレートに結ばれることになる。それまでは対岸に渡るには人も車も渡し船によらなければならなかった。
 渡し船の権利は和泉と登戸の共有であった。毎年入札を行い、お金はそれぞれの部落に入る。担当(落札者)は水夫(かこ・船頭)を雇って経営にあたる。水夫は和泉に約10人、猪方に6、7人いた。交替でたいてい3人が出た。
 和泉の渡船場は小田急の鉄橋と多摩水道橋の中間辺りにあった。今でも堤防から河原におりていく斜めの道が残っている。渡し守の小屋は9尺に6尺ほどの小さなもの。大水が出ると、流されてはたいへんと大勢でかついで馬船(うまぶね)に積んでしまう。水の来ない高みに移すこともあった。
 馬船というのは、上に板を張った大型船で、馬力やトラックまで乗せることができた。人だけなら80人ぐらいまで運んだ。ほかに小さな伝馬船(てんません)が2隻あったが、こちらはもっぱら人や自転車を乗せた。
 登戸とは一日交代。渡船料は多い日も少ない日も両者で折半した。収入は天まかせであった。船は和泉と登戸の共有で、新造、修理などは双方の話し合いで行われた。
 雪が降ったりしてお客の少ないときには、水夫たちはたいてい漁もやったから網すきに精を出す。一人二人のお客さんなら待たせておいて魚網を編む手を休めない者もいる。なかなか船を出してくれないと苦情が担当のところにきたりした。
 和泉と登戸の者は渡船料を払わないでよい。職人の仕事などで和泉に渡る登戸の人は多かったが、登戸へ出かけていく和泉の人は案外少なかったという。昭和初め頃の渡船料は一人2銭、荷車5銭、馬力15銭、トラック30銭であった。営業は24時間休みなし。夜中でも向こう岸から「オーイ」と声がかかれば船を出した。