狛江で人気の高い夏の風物詩といえば、多摩川の燈籠流しと花火であろう。このイベントの中心に、狛江市仏教協会による歴史の長い川施餓鬼の法要がある。古い版木の趣意書によると、文政八年(一八二五)泉龍寺十四世道林和尚が、和泉村の三人の名主(領主三人が分割している三給の村なので名主も三人いた)と連名で広く呼びかけ、多摩川での昔からの行事を復活させたことがわかる。功徳をあらゆる亡霊のために回向(えこう)しようという趣旨で、少しずつお金を出し合い、回向すべき故人の戒名を、日牌、月牌の二つの大きな位牌に記入し、毎年七月二十日に河原でおまつりする。燈籠流しも花火もなかったらしい。
 しかし、この時代多摩川には話題が多かった。例えば、猪方村の河原で歌舞伎を興行し、幕府の咎めを受けたり、玉川歌碑を建立して文人墨客に賞讃されたり、おリカさんの飲み屋で若者が遊びを覚えて困ると村役人たちが嘆いたり。大江戸文化の余波を受け、時代即応の村おこしを模索していた。川施餓鬼もその一つだろう。現在は、川施餓鬼の諸道具一切の世話をしているのは、いちばん近い玉泉寺である。
 戦前、人家は皆草葺(くさぶき)屋根だった。猪方の市川さんは花火の晩、屋根に登り箒(ほうき)に棒を付けて、ふりかかってくる火の粉を防いだという。戦争で中断し、戦後は、和泉多摩川で水泳客用の脱衣場など経営する人たちの音頭取りで復活。真っ暗な川の流れに写る燈籠(とうろう)の火影(ほかげ)が神秘的であった。よしず張りの小屋掛(こやがけ)での法要、丸太で組んだ舞台でのお囃子(はやし)や余興があり、映画を上映したこともある。
 昭和三、四十年代また中断した。きっかけは事業収支への疑惑だったようだが、衛生上の理由で遊泳が禁止されたり、娯楽が増えたせいもあろう。狛江町観光協会が公的に組織され、改めて伝統行事を復活したのは、昭和四十四年だった。観光客を集めるというよりも、大きく膨れあがった市民のふれあいの場を演出する企画としてよみがえっている。